なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

桂城跡

所在地:京都府京都市西京区桂久方町
別名:なし
築城年:不明
築城主:中路氏
廃城年:不明
主な城主:中路氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:なし

【歴史】
築城年など詳細は不明ですが、中路氏の居城とされています。山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」によれば、『東寺百合文書』に「中路壱岐守光降」の名がみられるという。また、桂城址北東にある極楽寺は、天文18年(1549年)光降が、建立したと伝えられている。永禄9年(1566年)、中路修理は、「郡館の戦い」で小泉秀清とともに三好三人衆と戦い大三大津に落ち延びている。『言継卿記』の天文二十二年(1453年)7月の項には「中路美乃守」の名が、同じく永禄11年(1568年)9月の項には「中路興介入道宗西」の名がある。










♢桂城跡へのアクセス

小泉城跡

所在地:京都府京都市右京区西院春日町他
別名:西院城、佐井城
築城年:天文年間(1532年〜1555年)
築城主:三好長慶
廃城年:不明
主な城主:小泉氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:なし

【歴史】
小泉城は、洛中唯一の戦国時代の城郭で、天文15年から18年の京都の景観を描いたものと思われる「上杉本洛中洛外図屏風」には「さいのしろ」として描写されています。「言継卿記」には、1550年に細川晴元が西院小泉城を攻めたことが記されており、三好長慶が、洛中んも押さえとして改修したものと推測されます。長慶は、小泉秀清を城将として守らせますが、1552年に細川晴元が京に迫り、小泉秀清は城を焼いて足利義輝が籠る霊山城に合流しました。しかし、1553年に入ると長慶は、義輝と不和になり同年、義輝軍は小泉秀清が籠る小泉城を包囲、攻撃するが、敗退している。その後、長慶の死後は松永久秀に従い、1566年に、久秀と対立する三好三人衆に攻められ小泉秀清は大津にて没落している。『日本城郭大系11より引用』











♢小泉城跡へのアクセス

嵐山城跡

所在地:京都府京都市西京区嵐山元録山町
別名:嵯峨城
築城年:明応6年(1497年)
築城主:香西元長
廃城年:不明
主な城主:香西氏
遺構:曲輪、石積、土塁、堀切、竪堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:なし

【歴史】
応仁の乱の頃に築かれ、永正年間に山城国の守護代官・香西元長が本格的に使用したといわれる。

臨時の年貢取り立てに応じなかった村々を焼き払った香西元長は、上官である室町幕府の管領・細川政元から咎めを受けた際、嵐山城に逃げ込んだという。

2年後の永正4年(1507年)、細川政元の後継をめぐる家督争い(永正の錯乱)の際、政元の謀殺を知って一時近江に逃れた三好之長らの軍勢(細川澄元擁立派)の京都入りに備えて、対する細川澄之擁立派が嵐山城で籠城の準備を始めている。2か月後、香西元長は西岡部落の人々(西岡衆)から攻撃をうけるなどして討ち死にし、これ以後嵐山城は史料上には現れないが、政元の後継とされる細川晴元(澄元の子、永正11年生まれ)らによって使われた可能性が指摘されている。

■嵐山城遠望(右側は渡月橋)

■登城口(京都一周トレイル 西山26)
ここから西山33を目指します

■登城途中の開けた所

■途中にある岩場(ここまで約30分ぐらい)



■主郭にある嵐山表示板

■主郭

■主郭

■主郭

■主郭からの景観






♢嵐山城跡へのアクセス

上中城跡

所在地:京都府京都市右京区京北上中町
別名:田中城、田中の小城
築城年:天仁年間(1108年〜1110年)
築城主:九郎国眞
廃城年:不明
主な城主:九郎国眞 草木頼泰 守親
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物:説明板
指定文化財:市指定史跡(上中城跡)
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:スペースあり

【歴史】
京都市右京区京北上中町城下町に所在する上中城(田中の小城)は、天皇を退位した院の御所を警備する北面の武士の一人によって天仁年中(西暦1108年〜1110年)に築かれたと伝えられています。この北面の武士は、蔵人大夫正平の末裔九郎国眞であるという伝承が残っていますが、確かなことはわかりません。

しかし、京の都と丹波や丹後地域を結ぶ周山街道沿いの要衝が築城の場所として選ばれていることは、築城者が院政期の政権と強く結びついていた可能性を示すものかもしれません。

実際、平成5年から平成7年に実施された発掘調査により、この城は12世紀から13世紀を中心に使用されていたことがわかりました。

上中城は、東西84m、南北40m、周辺部の水田より1m程度盛り上がった城内部分の面積が3,000㎡余り(史跡指定範囲は4,810㎡)あります。城の周囲には幅5m、深さ1mの濠が巡り、城内の北端部に幅5m、高さ1.8m、長さ20mの土塁が築かれていることが明らかになりました。

京都市内には140余りの城郭がありますが、平地に築かれる城の形として非常に珍しい楕円形である点、平安時代末期に遡る非常に古い城である点、城跡全体が良好な形で残っている点など特筆すべき特徴があることから、後世に残していきたい貴重な文化財として平成17年に京都市指定史跡になりました。

京都市 『現地説明板より』

■土塁


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■堀跡


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■上中城案内板


♢上中城跡へのアクセス

周山城跡

所在地:京都府京都市右京区京北周山町城山
別名:なし
築城年:天正8年(1580年)
築城主:明智光秀
廃城年:天正10年(1582年)(推定)
主な城主:明智光忠、加藤光泰
遺構:曲輪、石塁、井戸跡、堀切
再建造物:説明板 碑
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:公民館

【歴史】
天正7年丹波を平定し近江滋賀郡に加え丹波一国を与えられた光秀は、丹波亀山城に続いて若狭から京都への交通の要衝であり、宇津頼重により禁裏領への違乱が長く行われていた東丹波統治の拠点として周山城を築城した。築城年は根拠不明であるが地元の地誌『丹波誌』によると天正8年とする。城主には明智光忠が入ったとされる。天正9年8月には光秀が津田宗及を招き月見をした記録が『津田宗及茶湯日記』に記されており、城下の慈眼寺には善政を敷いたとの伝えと共に光秀の木像が遺っている。しかし築城からわずか1年後の天正10年、光秀は本能寺の変により信長を討つも、まもなく豊臣秀吉に討たれ、山崎の戦いの功により加藤光泰が入城する事となる。その後、天正12年に秀吉が周山城を訪れた記録が『兼見卿記』に記されているもののその後の記録はなく、破城されたものと思われるが廃城年について正確にはわかっていない。

東の城は天守台を含む総石垣の本丸を中心に8方向に伸びる支尾根全てに郭が築かれており、東西約800m、南北約700mの規模がある。現在の主郭付近は破城の際に崩された、石垣であったとみられる石材が随所に点在しているが、城郭が大規模で破壊しきれていない石垣が一部残っているほか、井戸跡や天守台跡も確認できる。

西の城は尾根上を平らにし、東の城との間に深さ7mの堀切を2本設け、さらに土塁によって守られていた土の城で東西約230m、南北140mの規模であった



■周山城説明板

■駐車場



■登山口にある説明板

■登城口

■大手門

■鍛冶屋跡(登城時は立ち入り禁止でした)

■朝早かったので雲海になっています

■三の郭

■三の郭



■石塁?

■兵糧庫





■二の丸

■二の丸

■二の丸





■主郭
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■主郭
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■主郭
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■周山城説明板

■縄張り図



■水留場

■井戸跡の方に降りていきます
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■井戸跡
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■井戸跡
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■小姓曲輪(ここから西郭かな)



■高石積

■下の段石積


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♢周山城跡へのアクセス

清富陣屋跡

所在地:兵庫県美方郡新温泉町清富143
別名:なし
築城年:寛永4年(1627年)
築城主:宮城主膳正豊嗣
廃城年:寛永20年(1643年)
主な城主:宮城氏
遺構:なし
再建造物:説明板 碑
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:なし

♢歴史
清富陣屋は、関ケ原の役(1600)後、浜坂周辺を支配していた宮城氏が、寛永4年(1627年)に二方郡一円を支配するようになり、陣屋を芦屋から清富(寛永20年)に移したことに始まります。宮城氏は江戸幕府に旗本として仕え、検地や近世村落の自立を図り、また清富村の町立てや岸田川の付け替え工事などを行いました。特に奉楞巌寺古文書の保護をした功績は大きいものがあります。宮城氏は江戸に住み、近江に大津屋敷があり、清富陣屋は直務と年貢収納の役所でした。
3代目宮城主膳が寛永20年(1643年)に逝去し、その跡を継ぐものがなく宮城家は断絶しました。所領は幕府に没収され天領となり、陣屋は廃止されました。現在、清富に「御屋敷」「殿町」「町」などの小字名や、区画された道路・石垣などの史跡があり、往時の面影を偲ぶことが出来ます。
・建立年月日 昭和57年12月
・碑文 碑面 清富陣屋跡 由来(内容省略)
・揮毫 宇野雪村
・建立者 東京 田中吉太郎

■清富陣屋跡記念碑









■相応峰寺




♢清富陣屋跡へのアクセス

芦屋陣屋跡

所在地:兵庫県美方郡新温泉町芦屋殿町
別名:なし
築城年:慶長10年(1605年)
築城主:宮城右京進頼久
廃城年: 寛永4年(1627年)
主な城主:宮城氏
遺構:なし
再建造物:説明板 碑
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:なし

♢歴史
慶長5年(1600年)、義父・豊盛が関ヶ原の戦いで、西軍に属し大坂城平野橋を警護したために戦後に所領を半減されたが、改易を免れ、以後は徳川家に仕える。慶長10年(1605年)、実兄・山崎家盛より但馬国二方郡の大部分である6014石を分知されて分割支配とされたので、上級旗本として芦屋に陣屋を構えた。慶長14年(1609年)、義父に先だって死去。享年40。嫡男の十二郎(豊嗣)が5歳と幼かったため、豊盛が後見となって、駿府で家康に拝謁して許しを得て、頼久の遺領を継いだ。



■塩冶周防守の碑説明板

■塩冶周防守の碑


♢芦屋陣屋跡へのアクセス

芦屋城跡

所在地:兵庫県美方郡新温泉町芦屋城山(城山園地)
別名:諸寄城、亀が城、阿勢井城
築城年:南北朝時代末期
築城主:塩冶氏
廃城年: 1605年(慶長10年)
主な城主:塩冶周防守、宮部善祥坊継潤、宮城右京進頼久
遺構:曲輪、堀切
再建造物:説明板
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:城山園地駐車場

♢歴史
屋城は戦国時代の武将塩冶周防守が居城にしていた城で、周囲を断崖絶壁に囲まれた地形は天然の要害となっており、海上交通を押さえるために築かれた城である。芦屋城は、天正八年(1580年)羽柴秀吉が但馬を攻めたとき落城した。城主塩冶周防守高清は、鳥取城主吉川経家を頼り、翌年羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、再び鳥取の雁金城と丸山城で戦ったがいずれも落城し、自決した。
昭和59年発掘調査が本丸部分について行われ、建物跡や青磁・白磁・天目茶碗、古銭・硯などが多数出土した。 
『芦屋城跡案内板』より

自決したのちは、鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり、「関ケ原の戦い」後に山崎家盛の弟である宮城右京進頼久が城主となりましたが、山麓に陣屋を築いて廃城となりました。

■諸寄港

■説明板

■登城口

■芦屋城説明板

■二郭

■主郭西側下段

■井戸跡

■土塁



■土塁

■主郭東側

■主郭

■主郭

■主郭






♢芦屋城跡へのアクセス

温泉城跡(ゆのしろ)

所在地:兵庫県美方郡新温泉町湯
別名:白毫山(びゃくごうさん)城
築城年:南北朝時代
築城主:奈良氏
廃城年: 不明
主な城主:奈良氏
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
再建造物:説明板
指定文化財:町指定史跡(温泉城)
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:路肩待避所

【歴史】
南北朝時代以来、奈良氏の城とされる。奈良左近は南朝方に与し、延文元年(1356年)に北朝方の今川義貞に温泉城を攻撃されたという。

元亀2年(1571年)8月、毛利方の鳥取城主・武田高信が尼子方の芦屋城主・塩冶肥前守を攻めた際、奈良氏も塩冶方で参戦している。

天正9年(1581年)の羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、温泉城は落城したといわれる。しかし畝状竪堀や竪堀が卓越した縄張に戦国時代末期の改修がうかがえ、羽柴秀長の但馬平定後の小代一揆で一揆軍の拠点として使われた可能性も指摘されている。


■ここを直進

■途中の待避所に駐車

■温泉城跡案内板
湯集落南側、岸田川の支流春来川と稲負谷川に挟まれた白毫山に所在し、城域は東西400メートル、南北200メートルある。標高338メートルの高所に位置する主郭(東西41メートル、南北25メートル)を中心として三方向に延びる尾根に階段状の堀切・竪堀で防御している。南北朝期に起源を持つ城ではあるが、横堀や畝条竪堀を含む30本を越える竪堀の存在から、戦国時代末期に改修された城である。
温泉城の詳細は定かではないが、延文元年(1356)に北朝方である伊達真信に攻め落とされている。その後は奈良氏が居城したという。

■登城口

■ここから3条の堀切があります



■堀切



■堀切

■堀切

■曲輪4

■曲輪4の竪堀

■曲輪3

■曲輪3の竪堀

■曲輪2

■曲輪2の竪堀

■主郭

■主郭

■主郭

■主郭西側下(残念ながら未訪)

■主郭北側下(当方未訪ですが、下りると横堀を伴う5本の放射状の竪堀群があるそうです)


♢温泉城跡へのアクセス

村岡藩陣屋跡

所在地:兵庫県美方郡香美町(御殿山公園)
別名:なし
築城年:寛永19年(1642年)
築城主:山名義方
廃城年: 明治4年(1871年)
主な城主:山名氏
遺構:石垣
再建造物:奥方部屋
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:御殿山公園

♢歴史
因幡の国守護であった山名豊国が、慶長6年(1601年)に七美郡五郷6、700百石を徳川家康から拝領して、村岡山名の初代となりました。当初は兎束村に陣屋を仮設し、元和元年(1615年)福岡と改称した。その後3代山名矩豊は寛永19年(1642年)陣屋を黒野村に移し村岡と改称した。8代山名義方は、文化3年(1806年)陣屋を尾白山に移し、中腹に陣屋を築き、大手門、中門、長屋、鎮守社,煙硝蔵、練兵場を設けた。11代山名義済は慶応4年(1868年)太政官から新田4千300石の加増を認められ、1万1千石で村岡藩を立藩し、12代山名義路の代に廃藩となった。
















■桜山御廟説明板

■桜山御廟

■奥方部屋庭園

■奥方部屋

■奥方部屋説明板

■奥方部屋

■奥方部屋からの風景

■御殿山公園案内図 野外ステージ付近に石垣があるそうです




♢村岡藩陣屋跡へのアクセス
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