なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

鳴海城

♢城郭情報
所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町城3
別名:根古屋城
築城主:安原宗範
築城年:応永元年(1394年)
廃城年:天正末年(1593年)頃
主な城主:山口教継、岡部元信、佐久間信盛等
遺構:堀、土塁
再建造物:石碑、東福院山門(伝・旧城門)
指定文化財:未指定
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:なし
御城印販売:
1.御城印の種類:鳴海城、丹下砦、善照寺砦、中島砦
2.料金:4枚1組1,000円(税込)
3.販売場所:桶狭間古戦場観光案内所、名古屋市観光案内所(オアシス21iセンター、金山観光案内所)※予告なく販売を終了することがございます。

【歴史】
室町時代の応永元年に足利義満の配下であった安原宗範によって築き、根古屋城ともいわれていた。戦国時代の天文年間には尾張国の織田信秀の支配下にあり、配下である山口教継が駿河国の今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。天文22年(1553年)、信長は鳴海を攻める(赤塚の戦い)が落とすことができなかった。永禄年間(1556~70年)今川義元は、部下の岡部元信をこの城に入れ織田氏に備えた。これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こり、総大将今川義元は打ち取られれ総崩れとなってしまった。鳴海城の岡部元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、城を明け渡した。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。



◇鳴海城跡公園

◇鳴海城跡公園

◇天神社境内(成海神社旧社地・鳴海城跡地)

◇天神社由緒

◇鳴海城址石碑







◇東福院山門(鳴海城移築城門)

◇東福院由緒


♢鳴海城跡へのアクセス

鷲津砦

♢城郭情報
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山
別名:なし
築城主:織田信長
築城年:永禄2年(1559年)
廃城年:永禄3年(1560年)
主な城主:織田秀敏、飯尾定宗・尚清父子
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:国の史跡(附)
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:なし
御城印販売場所:①大高観光案内所 ②喫茶店 はな華
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。


【歴史】
鷲津砦は、1559年(永禄2年)に、織田信長が今川義元の尾張侵入に対抗するため築いた。標高35メートルの丘上に東西約35メートル・南北40メートルの規模を持ち、堀をあったと記録されているが、現在、その規模はあきらかではない。当砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれたという。しかし、翌1560年(永禄3年)には桶狭間の戦いでは、今川方の重臣であった朝比奈泰朝に攻められ、織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子ら大半が討死し陥落したという。
参考文献『日本城郭大系 第9巻』


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◇鷲津砦の説明板

◇鷲津砦公園案内図






♢鷲津砦跡へのアクセス

丸根砦跡

♢城郭情報
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町丸根
別名:なし
築城主:織田信長
築城年:永禄2年(1559年)
廃城年:永禄3年(1560年)
主な城主:佐久間盛重
遺構:曲輪、堀
再建造物:なし
指定文化財:国の史跡
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:なし
御城印販売場所:①大高観光案内所 ②喫茶店 はな華
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。

【歴史】
永禄2年(1559年)、織田信長が今川義元との領土争いの前線として鷲津砦や善照寺砦とともに整備した。東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲を、幅3.6メートルの外堀が囲んでいる。、永禄3年(1560年)今川義元が西上すべく織田領内に攻め入ったおり、佐久間盛重を将とする織田軍が立てこもったが、松平元康率いる今川軍に敗れ全滅したといわれている。
参考文献『日本城郭大系 第9巻』

◇丸根砦跡の説明板







◇丘陵頂部にある丸根砦戦殉難列士之碑

◇丸根砦址石碑


♢丸根砦跡へのアクセス

大高城跡

♢城郭情報
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町城山
別名:なし
築城主:花井備中守
築城年:永正年間(1504年~1521年)
廃城年:永禄3年(1560年)
主な城主:花井備中守、水野忠氏など
遺構:本丸・二の丸の曲輪跡、土橋・空堀
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:なし
御城印販売場所:①大高観光案内所喫茶店 はな華
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
永正年間(1504~1521年)に花井備中守が居城し、天文・弘治年間(1532~1558年)には水野忠氏父子が居城した。天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。天文17年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主の山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。織田信長は、丸根砦と鷲津砦を築き、大高城と今川勢との連絡を断とうとした。永禄2年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。翌永禄3年(1560年)には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。当時、先鋒を務めた松平元康は、義元の命のより、敵中を突破して大高城へ兵糧を運び込むのに成功した。(兵糧入れの年代については諸説あり)
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの後に廃城となったが、元和2年(1616年)尾張藩家老の志水家が、ここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年(1870年)に売却された。
参考文献『日本城郭大系 第9巻』

◇大高城跡石碑

◇大高城の説明板

◇二の丸

◇二の丸

◇本丸にある城山八幡社

◇城山八幡社の由緒

◇土橋

◇空堀

◇空堀

◇三の丸

◇土塁

◇屋敷跡



◇二の丸






♢大高城跡へのアクセス

岡崎城

♢城郭情報
所在地:愛知県岡崎市康生町561−1
別名:龍城
築城主:西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代)
築城年:享徳元年(1452年)
廃城年:明治6年(1873年)
主な城主:西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏
遺構:石垣、堀
再建造物:天守、門、東隅櫓
指定文化財:岡崎城跡(岡崎市指定史跡
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:岡崎城公園駐車場
日本100名城:No45
スタンプ設置場所:岡崎城1F売店(休憩所)
御城印販売場所:岡崎城1F売店(休憩所)

※設置場所や販売場所は、必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼は永享年間(1429年~1441年)に、菅生川(乙川)南岸の明大寺付近に2つの城館を構えた。1つは平岩城(東城)で、現在の東岡崎駅周辺、もう1つは、六所神社あたり(西城)。西郷頼嗣の代に松平氏の進出をにらみ、1452年(享徳元年)から1455年(康正元年)に龍頭山の先端に砦を築き、北方の備えとしたのが岡崎城の始まりとされます。その後、大永元年(1521年)の頃まで代々居城したが、1524年(大永4年)、松平清康の命を受けた、家臣大久保忠茂等は奇襲により一夜にして、西郷信貞の持城である山中城を落城。清康は西郷信貞に岡崎城を明け渡させ、本拠を安城から岡崎へ移した。1530年~1531年(享禄3~4年)頃、清康は明大寺より龍頭山の砦へと本拠を移し、本格的な岡崎城を構えた。これが現在の岡崎城である。1535年(天文4年)清康は尾張国の陣中で家臣の謀反により命を落とし子の松平広忠が跡を継ぐが、1549年(天文18年)広忠が死去したのちは、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ、山田景隆、三浦義保、糟谷備前らが城代を務めた。1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康は岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。1570年(元亀元年):徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。1590年(天正18年)家康が関東に移封となると、豊臣家臣の田中吉政が入り大規模な城下町づくりを行った。田中氏の後は、徳川氏譜代の本多氏、水野氏、松平氏、ついで本多氏が再び城主となり、1873年(明治6年)廃城令によって廃城処分となり、天守以下の建物が撤去された。
参考文献『日本城郭大系 第9巻』

◇ 東隅櫓

◇南切通し

◇南切通しの説明板

◇菅生曲輪

◇菅生曲輪の説明板

◇東曲輪腰巻石垣

◇東曲輪腰巻石垣の説明板



◇大手門

◇三河武士のやかた家康館

◇本多平八郎忠勝公像

◇徳川家康公 銅像

◇二の丸能楽堂

◇しかみ像

◇しかみ像の説明板







◇東照公産湯の井戸(徳川家康産湯の井戸)

◇産湯の井戸の説明板

◇坂谷邸跡

◇坂谷門跡

◇龍城堀

◇神橋

◇龍城堀

◇龍城神社

◇模擬天守

◇家康公遺言

◇龍の井





◇清海堀

◇清海堀



◇太鼓門

◇太鼓門説明板

◇二の丸井戸

◇二の丸井戸の説明板


♢岡崎城跡へのアクセス

亀山城

♢城郭情報
所在地:愛知県新城市作手清岳大バロ
別名:なし
築城主:奥平貞俊
築城年:応永31年(1424年)
廃城年:慶長15年(1610年)
主な城主:奥平氏、松平氏
遺構:土塁・曲輪・空堀
再建造物:なし
指定文化財:未指定
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:道の駅 つくで手作り村 第2駐車場
御城印販売場所:作手歴史民俗資料館

※設置場所や販売場所は、必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
天授年間(1375~80年)に、上野国甘楽郡岩井村から山崎三郎左衛門高元を頼って、作手に移り住んだ奥平貞俊が、最初に城を構えたのは川尻城で、勢力が伸長するにしたがい、応永31年(1424年)に亀山城を築き移った。以降貞久の代には勢力が広がり、元亀年間(1570年 ~1573年)には、奥平貞能の子貞昌(信昌)が甲斐国の武田氏に従属したため、武田氏の三河侵攻の拠点となる。だが、天正元年(1573年)には徳川氏へ再転属。徳川家康によって貞昌が長篠城主となり長篠の合戦を前にして武田の軍勢を迎え籠城戦よく耐え、徳川・織田連合軍大勝の一因を作った。この貞昌も、合戦後は新城城を築きこれに移った。
関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)には信昌の四男松平忠明は家康の養子となり松平の家号を許され、亀山城に入ったが、慶長15年(1610年)に伊勢国の亀山城へ移封されると、城は廃城となった。

◇亀山城入口

◇亀山城案内図



◇腰曲輪

◇濠

◇西曲輪

◇濠

◇土橋

◇本丸

◇亀山城縄張り図

◇亀山城由来記と城跡石碑

◇亀山城由来記

◇虎口

◇濠

◇二の丸

◇濠

◇土塁

◇腰曲輪



◇濠


♢亀山城跡へのアクセス

古宮城跡

♢城郭情報
所在地:愛知県新城市作手清岳宮山31(白鳥神社)
別名:なし
築城主:武田信玄
築城年:元亀2年(1571年)
廃城年:天正4年(1576年)
主な城主:小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守
遺構:土塁・曲輪・横堀・竪堀等
再建造物:なし
指定文化財:新城市指定史跡
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:古宮城駐車場
続日本100名城:150番
スタンプ設置場所:作手歴史民俗資料館
御城印販売場所:作手歴史民俗資料館

【歴史】
元亀2年(1571年)に、武田信玄が築城し、その縄張り設計は馬場信春が行ったとされる。『三河国二葉松』には、小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守らが在城したとある。元亀3年(1572年)、この地を治めていた国人領主の奥平定能は武田信玄から本領安堵など書状を賜った。しかし、元亀4年(1573年)に武田信玄がなくなると、奥平定能・定昌親子は徳川家康に内通した。
天正元年(1573年)奥平親子が居城の亀山城を退去して滝山城に入ると、武田軍はそこに押し寄せた。奥平一族が起こした突然の裏切り行為による混乱に乗じて、手薄となった古宮城は定能・定昌親子の援軍として駆け付けた徳川家康軍の攻撃を受けて、城は焼き払われて武田勢は敗走したという。天正2年(1574年)武田勝頼の命をうけた小幡又兵衛らが城番として入城した。天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田氏の勢力が大きく後退したこの時期に廃城した可能性が高い。
参照『日本城郭大系第9巻 静岡・愛知・岐阜』『 古宮城跡(新城市HP)』



◇古宮城概要
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◇白鳥神社





◇虎口

◇東地区主郭下段

◇虎口

◇仕切り土塁

◇主郭上段

◇仕切り土塁

◇櫓台

◇堀

◇土橋

◇西曲輪主郭下段・丸馬出

◇枡形虎口

◇西曲輪上段

◇仕切り土塁

◇枡形虎口

◇曲輪



◇堀




♢古宮城跡へのアクセス

長篠城跡

♢城郭情報
所在地:愛知県新城市長篠市場22ー1
別名:末広城、扇城
築城主:菅沼元成
築城年:永正5年(1508年)
廃城年:天正4年(1576年)
主な城主:菅沼氏、奥平信昌、徳川家康
遺構:曲輪、土塁、空堀、石垣
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡(城跡の一部)
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:長篠城城跡駐車場
日本100名城:No46
スタンプ設置場所:長篠城址史跡保存館
御城印販売場所:長篠城址史跡保存館1階自動販売機の横(館外)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
永正5年(1508年)、菅沼元成が荒尾の岩古屋城からこの地に移り築城したと伝えられる。元成以後、長篠城では俊則、元直、貞景、正貞が城主を務めている。当初は、今川氏親に従っていたとみられる。しかし、1560年(永禄3年)の桶狭間の合戦後の貞景の頃には松平氏に降り、掛川城攻めで貞景は討死すると、その子正貞は、元亀2年(1571年)武田氏に属した。天正元年(1573年)、徳川家康の長篠攻めに対し、城主・正貞は開城し、自らはそこから退去する。以後、長篠城は徳川家の城となり、松平家忠、奥平景忠らが城番に入ったが、天正3年(1575年)武田勝頼の来功を受け長篠の戦いが始まった。合戦後の天正4年(1576年)奥平信昌が新城城を築城し、長篠城は廃城になったとされる。

◇搦手門跡

◇ 瓢郭跡

◇二の丸跡



◇長篠城址史跡保存館

◇長篠・設楽原の戦い布陣図



◇帯郭跡

◇堀

◇長篠城概要図

◇長篠城歴代城主

◇長篠城址石碑

◇土塁上にある久邇宮良子女王お手植えの松

◇久邇宮良子女王お手植えの松説明板



◇内堀

◇城藪稲荷様跡地





◇本丸跡





◇物見櫓跡

◇鳥居強右衛門公磔関連地

◇鳥居強右衛門公と長篠・設楽原の戦い

◇弾正郭跡

◇弾正郭跡

◇家老屋敷跡




◇鳥居強右衛門公 磔死の趾




♢長篠城跡へのアクセス

吉田城跡

♢城郭情報
所在地:愛知県豊橋市今橋町3(豊橋公園)
別名:吉祥郭、峯野城、歯雑城
築城主:牧野古白
築城年:永正2年(1505年)
廃城年:明治4年(1872年)
主な城主:牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏、竹谷松平氏、深溝松平氏、沼津水野氏、山形      水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏、本庄松平氏、大河内松平氏
遺構:石垣、土塁、堀
再建造物:模擬鉄櫓
指定文化財:吉田城址(豊橋市指定史跡)
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:豊橋公園駐車場
続日本100名城スタンプ設置場所:
①吉田城鉄櫓(資料館)
②豊橋市役所 展望室(東館13階)
御城印販売場所:
①豊橋市役所 じょうほうひろば
②豊橋市美術博物館 (1階ミュージアムショップ)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
永正2年(1505年)に、牧野古白が今川氏親の命により、築城したとされる。

翌永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城から近い東方の二連木城や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わった。

享禄2年(1529年)、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。

天文15年(1546年)、牛窪城主(長山一色城主)の牧野保成の要請を請けて今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落させ、これを管理下に置いた。今川氏が直接支配に乗り出したことで東三河における最重要戦略拠点となった。今川義元は駿河から城代に伊藤左近・後に小原鎮実を派遣。

永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力を低下、永禄8年(1565年)には、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、小原鎮実は退避。今川氏は三河支配権を喪失する。

家康は、重臣の酒井忠次を城代に任命。並びに、南方の田原城の城代に本多広孝を配置。吉田城を中心とし戸田氏や牧野氏、西郷氏などの東三河4郡の諸豪族を統率させた。永禄11年(1568年)末からの遠江侵攻では、掛川城を攻囲するまでの東三河衆は酒井忠次の指揮の下、家康本隊とは別行動であった。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。慶長6年(1601年)に輝政は播州・姫路に移封された後は、三河吉田藩の藩庁が置かれ、竹谷松平家をはじめ、深溝松平家や水野氏、小笠原氏などが城主になり最後に入ったのは、大河内松平家である。明治4年(1871年)、敷地は兵部省の管轄となった。
参照『日本城郭大系9』

◇三の丸跡にある三の丸会館
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◇二の丸にある豊城神社
豊城神社は,正徳年(1712年)松平信祝が下総古河からの転封に際して、先祖の霊を吉田城二の丸に移したもので、藩祖源頼政を祀ったものである。

◇彌健神社

◇内堀跡

◇空堀

◇裏御門跡

◇本丸井戸跡

◇鉄櫓跡

◇本丸跡

◇本丸跡

◇風景

◇武具所跡

◇北御門跡

◇腰曲輪跡



◇川手櫓跡

◇堀

◇二の丸御殿跡

◇二の丸口門跡








♢吉田城跡へのアクセス

二連木城跡

♢城郭情報
所在地:愛知県豊橋市仁連木町
別名:仁連木城
築城主:戸田宗光
築城年:明応2年(1493年)
廃城年:天正18年(1590年)
主な城主:戸田氏
遺構:土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:なし

【歴史】
戸田宗光(全久)は、文明12年(1480年)頃に田原城を構え、ここを本拠とし有力な国人として成長した。この宗光は田原城を子憲光に委ねて、明応2年(1493年)に二連木城を築いた。これによって、二連木城を渥美郡北部の根城とし、息子の憲光に譲った田原城と共に戸田家の中心拠点となる。そして、戸田宗光は渥美郡完全制圧を図る。永正5年(1508年)、戸田宗光は没した。
その後、天文10年(1541年)、宣光が修築した。天正18年(1590年)最後の二連木城主戸田康長(戸田松平家の祖で松平姓を受ける)は徳川家康の関八州へ移封と共に去り、二連木城は主を失った。しかし、松平姓を受け、徳川松平一族と同格となった仁連木戸田家は宗家を名乗り、田原戸田家は分家となる。
この年、この東三河地域(当時、4郡で総石15万2000石)へ入った池田照政(播磨国姫路城へ移封時に輝政と改名)は吉田城を拠点とし、二連木城を廃城とした。
参照『日本城郭大系9』

◇大口公園入口

◇大口公園案内板

◇二連木城跡説明板

◇土塁



◇土塁

◇空堀


♢二連木城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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