なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

旧箱館(蝦夷)奉行所

所在地:北海道函館市元町12−12
別名:蝦夷奉行所
築城年:享和2年(1802年)
築城主:江戸幕府
廃城年:1821年(文政4年)
主な城主:江戸幕府
遺構:函館奉行所標柱
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:有料駐車場

箱館奉行所は、江戸時代後期になって新たに設けられた江戸幕府の役所です。二度にわたって設置されています。
18世紀後半、鎖国体制をとっていた日本沿岸に、外国船が近づく事件が頻発するようになります。ロシアの南下政策の影響もあって、蝦夷地での接触が避けられないものとなり、日本とロシアの関係悪化が進みました。そこで幕府は、寛政11(1799)年に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にして、幕府が外交上の問題に直接かかわれる体制をつくりました。
享和2(1802)年には蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所(現在の元町公園)に奉行所を建てました。

1821年(文政4年)幕府は財政難の問題と、対外関係の緊急の問題は去ったという判断から、松前藩を蝦夷地に戻します。ここでいったん、箱館(松前)奉行は役割を終えました。

■箱館奉行所標柱



■四天王像
函館四天王像 市民精神の源流
明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。
明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである、その繁栄は、平田文右衛門はじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の境港とくらべて明治の自由都市の函館と賞する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。四天王とは次の四人である
像の向かって左より今井市右衛門、平田文右衛門、渡邊熊四郎、平塚時蔵




■旧北海道庁函館支庁庁舎


♢旧函館奉行所跡へのアクセス

宇須岸河野館跡

所在地:北海道函館市弥生町2-2
別名:箱館、河野氏館、宇須岸館
築城年:享徳三年(1454年)
築城主:河野政通
廃城年:永正9年(1512年)
主な城主:河野氏
遺構:案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:なし

♢歴史
亨徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したという。
政通は、当時「宇須岸」(うすけし)と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれている。この「河野館」に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。り、地名発祥の基となった(明治2年「函館」と改称された)。

永正9年(1512年)アイヌとの抗争で、河野季通(こうのすえみち、政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰退したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。次いで、寛保元年(1741年)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802年)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行所庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。箱館奉行所庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。『現地案内板より』



■宇須岸河野館説明板

■ペルー提督来航記念碑
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♢北海道最初の学問所「諸術調所」
諸術調所跡とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856年)に設立された。
教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。
元治元年(1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。
同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカヘ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出ていってしまっていたための行動であったとも言われている。
内外共に多難な幕末期、開明的で進取積極の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けることであろう。『現地案内板より』



■諸術調所説明板


♢宇須岸河野館跡へのアクセス

弁天台場跡

所在地:北海道函館市弁天町20
別名:弁天岬台場、弁天砲台
築城年:安政3年(1856年)から文久3年(1863年)
築城主:江戸幕府
廃城年:明治30年頃取壊し
主な城主:なし
遺構:標柱のみ
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:なし

♢歴史
西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。
台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)をした台場は、元治元(1864)年に完成した。
この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。
台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。
『弁天岬台場(弁天台場)説明板より』

■入舟児童公園内にある弁天岬台場(弁天台場)説明板

■入舟児童公園内にある新選組最後の地石碑(実際の弁天台場の位置は電車通りをはさんで反対側、現在の函館どつくの位置にありました。)

■弁天台場標柱


♢弁天台場跡へのアクセス

五稜郭跡

所在地:北海道函館市五稜郭町44
別名:亀田(御)役所土塁、柳野城
築城年:1866年(慶応2年)
築城主:江戸幕府
廃城年:1869年(明治2年)
主な城主:なし
遺構:土塁、石垣、堀、兵糧庫
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:近隣有料駐車場(バイクは無料駐車場あり)
♢箱館奉行所
■入館料
一般 500円
学生・生徒・児童
250円
未就学児
無料
♢日本100名城スタンプ情報
①箱館奉行所付属建物「板庫(休憩所)」
②五稜郭タワーチケット売り場

♢五稜郭公園公式HP



♢歴史
五稜郭は、1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として武田斐三郎が設計し築造されました。水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートルであり、うち郭内は約12万平方メートルである。築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。

大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させますが、同年5月新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、榎本らが降伏して五稜郭は新政府軍に引き渡された。明治以降、郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用されました。その後、1914年(大正3年)に、五稜郭公園として一般公開されました。


■半月堡

■半月堡説明板
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■刎ね出し石垣
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■堀
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■土塁と石垣

■土塁・石垣説明板










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■大砲を運んだ坂

■箱館奉行所



■裏門橋



■箱館奉行所

■箱館奉行所

■箱館奉行所

■門番所跡

■五稜郭タワーから見た五稜郭

■五稜郭タワーから見た函館山



■五稜郭に立つ土方歳三

■説明板


五稜郭へのアクセス

志苔館跡

所在地:北海道函館市志海苔町
別名:志濃里館
築城年:南北朝時代
築城主:小林重弘
廃城年:1457年(長禄元年)か
主な城主:小林良景ー良定ー季景
遺構:土塁、堀、曲輪
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:志海苔ふれあい広場駐車場

♦続日本100名城スタンプ情報
(続)101 志苔館 
設置場所:志苔館あずまや

♢歴史
志苔館が記録に登場するのは,松前藩の史書「新羅之記録」中で,長禄元(1457)年の項に,「…長禄元年五月十四日夷狄蜂起来而,攻撃志濃里之舘主小林太郎左衛門尉良景…殺狄之酋長胡奢魔允…」と康正2(1456)年からの「コシャマインの戦い」により館が陥落したことが記述されています。さらに,永正9(1512)年の項にも,「永正九年四月十六日宇須岸志濃利與倉前三舘所攻落夷賊…小林太郎左衛門尉良景之子彌太郎良定…」と再度アイヌとの戦いにより館が陥落した記述がみられます。しかしこの後は,館主であった小林氏が松前藩に従属したといわれ,志苔館が記録上に登場することはなくなり,事実上廃館となったものと推定されています。

館跡は、自然地形を活かし、四方に土塁と薬研または箱薬研状の空堀が巡らされ、全体でほぼ長方形の形状を呈している。内部は東西約70-80メートル、南北約50-65メートルで、約4,100平方メートルの広さがあり、曲輪の内部では掘立柱建物跡や井戸が確認されている。土塁の高さは、北側で約4.0-4.5メートル、南側で約1.0-1.5メートルであり、土塁の外側にあたる北側と西側には幅約5-10メートルの空堀が設けられ、最も深い所で約3.5メートルの深さをもつ。

発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁・白磁・珠洲焼・越前焼・古瀬戸などの陶磁器が出土している。これらの遺物の年代は『新羅之記録』に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時期(1457年)と矛盾しない。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(101番)に選定された。

■和人殉難慰霊碑・阿伊努帳魂慰霊碑

■慰霊碑説明板

■史跡志苔館跡の標柱と案内看板

■志苔館跡案内看板
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■空堀



■空堀

■空堀

■柵跡と掘立柱建物跡と奥に土塁

■井戸跡

■掘立柱建物跡と奥に土塁






♢志苔館(しのりたて)へのアクセス

権現台場跡(旧函館東照宮)

所在地:北海道函館市神山3丁目18−1
別名:なし
築城年:1869年(明治2年)
築城主:蝦夷共和国(函館政権)
廃城年:1869年(明治2年)
主な城主:蝦夷共和国(函館政権)
遺構:土塁
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:

♢歴史
(現地説明板より)
東照宮は、元治元年(1864年)五稜郭が完成した時、その鬼門(東北)の守護神とするため、日光東照宮から分祀された日高様似(ひだかさまに)の等澍院(とうじゅいん)から東照大権現を分霊して、上山村(現市内神山町)に建てたのが始まりである(以後上山村は神山村と改められた)。
明治元年(1868年)五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、翌2年五稜郭北面守備のため四稜郭を急造、さらに五稜郭との重要な結節点にあたる東照宮に砲台(権現台場といわれている。)を設けた。しかし、同年この砲台は新政府軍の攻撃を受け、東照宮も社殿を消失した。
東照官は、その後、箱館の大祐庵(てんゆうあん 現在の青柳町天祐寺)などを転々としたが、明治12年(1879年)宝来町に移り、平成3年(1991年)に陣川町に移転して北海道東照宮と改称した。
この大鳥居は、五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当した石工の作で、箱館戦争の砲火にも壊されずこの地に残った。     函館市


■現地説明板

■奥に土塁

■神山稲荷神社


♢権現台場跡へのアクセス

四稜郭跡

所在地:北海道函館市陣川町
別名:新台場、神山台場、新五稜郭
築城年:1869年(明治2年)
築城主:蝦夷共和国(函館政権)
廃城年:1869年(明治2年)
主な城主:蝦夷共和国(函館政権)
遺構:土塁
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:四稜郭無料駐車場

■歴史 1868年(明治元)年10月に五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は,新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築きましたが,五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るため,五稜郭の北方約3kmの函館を一望できる緩斜面台地にも洋式の台場「四稜郭」を急造しました。四稜郭は,蝶が羽を広げたような形の堡塁で,東西約100m南北約70mの範囲に,幅5.4m高さ約3mの土塁が巡り,その周囲には幅2.7m深さ0.9mの空濠が掘られています。また,土塁の南西側には門口が設けられ,郭内(面積約2,300平方メートル)の四隅には砲座が配置されていますが,建物は造られませんでした。地元の言い伝えによると,旧幕府脱走軍は士卒役200名と付近の住民約100名を動員して,昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれています。1869(明治2)年5月11日,新政府軍は箱館総攻撃を開始しました。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めましたが,新政府軍には福山藩兵も加わり,さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため,退路を断たれることを恐れ五稜郭方面へと退却しました。同年5月18日には旧幕府脱走軍の榎本武揚以下が降伏し,箱館戦争は終わりました。




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♢四稜郭へのアクセス

ヲンネモトチャシ跡

所在地:北海道根室市温根元59 ほか24ヶ所
別名:なし
築城主:不明
築城年:16~18世紀頃
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:盛土(土塁)、壕、郭
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月10日(月)曇
駐車場:温根元シャチ無料駐車場
日本100名城:No1
スタンプ設置場所:①根室市歴史と自然の資料館
②根室市観光インフォメーションセンター(根室駅前)
③北方領土資料館
※スタンプ設置場所に変更があることもありますので、城巡り行く前には必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

♢歴史 「チャシ」はアイヌ語で「柵囲い」を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途で使われていたとされます。北海道内でチャシ跡は500ヶ所ほど確認されており、根室市内には32ヶ所のチャシ跡が残り、うち24ヶ所は「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡に指定されています。また、平成19年には日本城郭協会が定める日本100名城のひとつ(お城番号1番)として選定されました。根室市内のチャシ跡が築かれた正確な年代は不明ですが16~18世紀頃とされています。根室市内のチャシ跡は、海を臨む崖上に、半円形や方形の濠を巡らせた「面崖式」(めんがいしき)のチャシ跡が多く、濠を組み合わせた大規模なものが多いことで知られています。現在、見学先として整備されているのはノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所です。



♢ヲンネモトシャチ跡へのアクセス
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