なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

田原城跡

♢城郭情報
所在地:愛知県田原市田原町巴江11ー1
別名:巴江城
築城主:戸田宗光
築城年:文明12年(1480年)ころ
廃城年:明治4年(1872年)
主な城主:戸田氏、伊木家、三宅氏
遺構:石垣、堀
再建造物:櫓・門
指定文化財:なし
訪城日:2023年11月23日(木)晴
駐車場:田原市博物館駐車場
御城印販売場所:田原市博物館




【歴史】
諸説ありますが、文明12年(1480年)頃、戸田宗光(全久)は、今川氏の要請により当時上野城(現豊田市)を居城にしていたが、老津(豊橋市)に移り田原城を築いて拠点とし、渥美半島を含め周辺地域を支配していきました。このように宗光が強大になったのは今川義忠の庇護が大きかった。義忠が塩買坂の戦いで討死したのちは田原城を子の戸田憲光に譲り自身は二連木に築城して移った。
明応8年(1499年)今川方の舟形山城を攻略するも、掛川城代朝比奈左衛門奏以に奪い返された。『宗長手記』乱世に名を現した宗光は、雄図途上に舟形山城の合戦で討死した。宗光没後は、憲光が田原城を継いだが、今川に抗することを不利とし再び幕下に加わった。しかし隣接する吉田上の牧野古白とは容れ、今川氏親とともに吉田城を攻略。
永正6年(1509年)二連木城にいた憲光の子政光は田原城に移った。その後、戸田宗光(康光)・戸田堯光の時、天文16年(1547年)、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康。康光は義母の父に当たる)を護送する任を受けるも、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送ってしまったため今川義元の怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城、城主康光も戦死した。
ただし、2010年後半になって岡崎城を織田氏に攻め落とされた松平広忠が自ら竹千代を人質に出したとする説が有力となったことで、戸田康光の裏切りそのものが事実として成立しなくなってしまった。加えて、田原城周辺の状況から天文16年の田原城攻撃の際には落城には至らず、実際に田原城が落城したのは天文19年(1550年)頃であったと推定されている。
その後今川氏に属する城代が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入った。さらに天正18年(1590年)、家康が関東へと移封すると代わって吉田城に入封した池田輝政の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に在城した。輝政の統治期に、石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられる。
江戸時代になると、田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成した。はじめ田原戸田家の支族、戸田尊次が入り、その後寛文4年(1664年)に三宅氏が1万2千石で入封、そのまま明治維新を迎えるまで200年強支配した。
参考文献 『日本城郭大系〈第9巻〉静岡・愛知・岐阜(新人物往来社) 』

◇桜門

◇堀

◇桜門

◇田原城説明板

◇二ノ丸櫓



◇二ノ丸櫓



◇田原市博物館

◇三の丸にある護国神社



◇本丸にある巴江神社(南朝の忠臣児島高徳を祀る)

◇巴江神社

◇井戸跡





◇枡池

◇崋山神社

◇崋山神社

◇崋山神社由緒


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◇空堀

◇空堀


♢田原城跡へのアクセス

穴太城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市曽我部町穴太口山(小幡神社)
別名:穴穂城・長谷山堡、長谷山砦。長谷山要害
築城主:不明
築城年:不明
廃城年:不明
主な城主:赤沢氏
遺構:石垣
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:小幡神社駐車場

【歴史】
穴太城の築城年代など詳細は不明ですが、『野田泰忠軍忠状』によると、応仁・文明の乱の際、東軍方の野田秦忠は、応仁三年(1469年)に西軍に破れ「丹州穴太」に退き、そこを拠点に摂津を攻めたとある。また、『石田家系全』によると、天正6年(1575年)赤沢加賀守義政は長沢因幡守智であることから、笑路城城主長沢氏と親戚関係にあったことがわかる。
本丸は東西52メートルx南北50メートルの不規則な五角形をなし、西には二の丸、東には三の丸を配した梯郭式の平山城となっています。
『日本城郭体系11参照』

◇小幡神社社殿





◇登り口
天候が悪くなって来たのと、登り口が、倒木で、かなり荒れていたので登れず断念しました。


※登り口が、神社から300mほど離れた場所に桜広場(主郭)へ登る道があるようです。
♢穴太城跡へのアクセス

余部城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市余部町古城(西岸寺)
別名:過部城、余部丸岡城、丸岡城、円岡城、岡山城
築城主:不明
築城年:不明
廃城年:不明
主な城主:野田泰忠、長尾大和守、中沢氏、福井氏、明智氏、能勢氏
遺構:石垣
再建造物:石碑(丸岡城跡)、説明板
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:西岸寺駐車場
御城印販売場所:西岸寺

【歴史】
築城年代については不明です。応仁・文明の乱の際、丸岡城は東軍の拠点となっていた。、文明元年(1469年)6月、東軍の野田泰忠や安富又次郎が「余部之城」へ入っており、同年10月、丹波に侵攻する西軍を防ぐため、二人は再び「余部之城」に入っている。
天文年間(1532~55年)の頃の城主は、中沢因幡守正綱で、没落後は福井因幡守貞政が余部城主になったようです。その後は、多紀郡八上城の波多野氏の勢力が食い入り、天正年間(1573~92年)の頃には、福井因幡守貞政が城主となった。織田信長の命を受けて明智光秀が丹波進攻を開始し、天正5年(1577年)明智光秀は、余部城に使者を送り、早く降伏して忠節を尽くすよう勧告したが、使者の髻を切り腰刀を奪って追放したため、翌天正6年(1578年)明智光秀は余部城を攻撃。城主の福井因幡守貞政は籠城し頑強に抵抗した後に切腹して自害したと伝わる。更に勢いに乗じた光秀は八上城も攻め落とし丹波を手中にし、荒塚山に亀山城を築いた。

◇西岸寺と城跡石碑





◇丸岡城(余部城)跡の説明板




♢余部城跡へのアクセス

亀山城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市荒塚町周辺
別名:亀宝城、亀岡城、霞城
築城主:明智光秀
築城年:天正6年(1578年)
廃城年:明治10年(1877年)
主な城主:明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
遺構:石垣、堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:大本本部駐車場
御城印販売場所:総合受付、大本万祥殿

注意事項
*大本神苑拝観券を購入された人のみ見学が可能になります。(入館チケット高校生以上300円)
*城跡の見学可能時間は、午前9時30分~午後4時00分です。
*拝観券は、大本本部みろく会館総合受付または万祥殿でお買い求めください。
*いちょう台(明智光秀手植えのいちょうの子孫と伝わる木のあたり)周辺および天守台があった場所は立ち入りおよび撮影は禁止です。      
*城跡の見学以外の目的で大本本部駐車場を利用することはできません。

【歴史】
織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)に築城。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となったが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝・豊臣秀勝・豊臣秀俊や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入った。
秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛を入封させ、丹波亀山藩主に任じた。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築した。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。
寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となった。1877年(明治10年) 政府が廃城処分を決定し、天守は解体された。

◇案内図
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◇亀山城古写真



◇三ノ丸内堀。現在は万祥池

◇万祥池の奥へ









◇石垣

◇天下普請の刻印

◇天下普請の刻印の説明板

◇三の丸跡に建つ万祥殿

◇本丸入口

◇石垣

◇石垣は3段目までが当時のもので、あとは大正8年に全て積み直した



◇天守台石垣

◇天守台

◇井戸跡





◇天守台跡

◇保津門跡
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◇外堀

◇外堀

◇南郷公園にある明智光秀公像と鯱瓦

◇明智光秀公像


◇亀岡城の城門(新御殿門)は現在、千代川小学校に移築されています。

◇新御殿門

◇文覚寺(京都府亀岡市保津町)には城門
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◇城門
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※雨が降り出したので、未訪問ですが桂林寺(亀岡市本梅町平松)と延福寺 本坊表門(亀岡市本梅町西加舎)には明智門があります。移築された邁訓校校門(個人宅)が亀岡市千代川町千原学堂にあります。

♢亀山城跡へのアクセス

保津城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市保津町山ノ坊
別名:なし
築城主:不明
築城年:南北朝時代
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:曲輪、土塁、堀切
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:なし

【歴史】
保津城については、築城年代や築城者については定かでないが、南北朝時代から存在しているといわれています。
「遠山家文書」の中に「中津河小次郎秀家申丹波国所々至軍忠事」に観応3年(1352年)、5月14日に保津城を攻め落としたと書かれ、丹波守護代・荻野朝忠が「承候了」と花押を与えている。
『日本城郭大系11より抜粋』

◇明智越え入口
明智光秀が本能寺の変の直前に、亀山城から愛宕山の愛宕神社に参詣した時に通ったとされる道。
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◇明智越え説明板
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◇愛宕さん説明板
愛宕神社は、山城と丹波の境にそびえ立つ愛宕山上に鎮座しており、現在は火伏せの神様として知られています。中世においては、本地仏として本殿に祀られていた勝軍地蔵が諸国の武士たちから「いくさの神様」として信仰を集め、光秀もこれを信仰していました。
光秀と愛宕神社との関係は深く、光秀が天正3年(1575年)から始まる丹波国攻略に向けて出陣した際に、いくさに勝てるようにと愛宕神社に戦勝祈願を依頼した書状が数通残されています。これは、信長から任された重要な丹波攻略を成功させるという光秀の強い意志の表れと思われ、戦勝祈願のお礼として勝ち取った土地や金銭などを愛宕神社に奉納していたこともわかります。
『亀岡市文化資料館執筆より抜粋』

◇山坊甚五郎住処跡
保津町には毎月十日は「味噌汁を飲まない」という風習がある。
牛松山に鎮座する金比羅神社の祭神・大物主命(おおものぬしのみこと)は継母に育てられたが、食事は味噌汁だけしか与えられず、ひもじい思いをしていた。
その頃、保津村に“山坊甚五郎”という悪戯好きの雄狐が棲んでいたが、甚五郎は大物主命を哀れみ、密かに食事を分け与えて育てることにした。甚五郎は自分と大物主命の分の食事を調達するため、村人に化けて旅人を騙し、食料をせしめていたという。その後、成長した大物主命は保津の守り神(金比羅神)となり、村人から厚く信仰されるようになった。そして保津の村人たちは、味噌汁しか与えられなかった金比羅神に遠慮すると共に、神を育てた山坊甚五郎への感謝の意を込め、月命日にあたる十日は味噌汁を飲まないという。
『丹波の伝承』「狐、二題」
『保津百景道しるべ』「No.28 味噌汁の恩返し 金比羅に感謝」より



◇堀切

◇城跡標識

◇土橋

◇郭跡

◇堀切












♢保津城跡へのアクセス

園部城跡

♢城郭情報
所在地:京都府南丹市園部町小桜町周辺
別名:薗部城、園部陣屋
築城主:小出吉親
築城年:元和5年(1619年)
廃城年:明治5年(1872年)
主な城主:小出氏
遺構:石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所、太鼓櫓
再建造物:なし
指定文化財:京都府暫定登録文化財(巽櫓、櫓門、番所)
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:園部総合公園駐車場
御城印販売場所:南丹市立文化博物館受付
※御城印販売場所の営業時間等、変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
園部城は元和 5年(1619年)の園部藩成立後、初代藩主小出吉親が小麦山周辺地に築造を開始し、その 2年後に完成したものです。吉親は、この時に櫓も築造しようとしましたが、江戸幕府の許可が得られず、建築は見送られました。このため幕府の制度上としては陣屋という扱いになりましたが、敷地は総構で南北約 650m、東西約 400mで、二重堀や鉄砲を撃つ狭間を設けた塀などもあり、規模としては城とも呼べるものでした。しかしながら、この時に「城」とならなかったことが、幕末維新期に新たな展開を迎えることになりました。元治元年(1864年)12月、園部藩は幕府に対し、新規に櫓門 3 ヶ所、櫓 9 基、さらには、本丸以外の塀にも狭間を築造したいと絵図を添えて願い出ます。幕府へ提出した書状によれば、初代吉親の築造時には、塀に狭間を配置し、二重堀や櫓台まで完成していたが、その後に延期となったままであること、池田屋事件や禁門の変などの武力衝突が相次いで起こり、警備を厳重にすることを仰せ出されている情勢であること、また、園部は京都から近く、そういった際には要衝地ともなることなどが理由として述べられています。しかし、この時も築城は認められず、園部藩では引き続き幕府との交渉を行い、慶応 3年(1867年)10月、ついに内諾を得ることができました。しかし、その直後に大政奉還が行われたため正式な許可が出ず、翌年の 1月に改めて新政府に願い出ることになります。新政府へ願い出た築城の理由も幕府へ提出したものと同内容でしたが、今回は「帝都御守衛」のためとして、すぐに認められました。そして、櫓門3ヶ所、櫓 5基の普請が行われ、さらには堀も造成して園部陣屋は園部城へと生まれ変わったのです。しかし、園部藩の政治的な拠点としての役割は短く、明治 4年(1871年)には廃藩置県が実施され、藩は廃止されてしまいました。『南丹市教育委員会社会教育課』

※南丹市八木町の安楽寺には園部城から移築したと伝えられる太鼓櫓が現存しています。

◇小麦山櫓跡(三重櫓跡)

◇小麦山櫓跡(三重櫓跡)



◇模擬天守(南丹市国際交流会館)

◇模擬天守(南丹市国際交流会館)

◇園部城の石標

◇櫓門

◇本丸巽櫓

◇本丸巽櫓
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◇本丸巽櫓
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※京都府立園部高等学校の敷地なので中に入ることは出来ませんでした。許可を取れば入れるみたいです。園部城跡から距離はありますが、安楽寺(京都府南丹市八木町北屋賀国府26)に移築された太鼓櫓があります。

♢園部城跡へのアクセス

灰方城跡

♢城郭情報
所在地:京都府京都市西京区大原野灰方町(心光院)
別名:なし
築城主:不明
築城年:室町時代
廃城年:不明
主な城主:
遺構:不明
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:なし

【歴史】
灰方城跡の城歴については詳細不明です。


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未訪問ですが、西迎寺(京都市西京区大原野南春日町651)を含む周辺は、大原野野田城跡だそうです。興味がある方はいかれてみてはいかがでしょうか。

♢城跡へのアクセス

長峰城跡

♢城郭情報
所在地:京都府京都市西京区大原野石作町40
別名:なし
築城主:不明
築城年:室町時代
廃城年:不明
主な城主:
遺構:不明
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:なし

【歴史】
長峰城跡の築城年や城主など詳細は不明です。現在は、八幡宮社 (長峰八幡宮)が鎮座しています。由緒は不明ですが、祭神として応神天皇、天照大神を祀ります。大歳神社に合祀された式内・石作神社の旧地とも云われる。社殿下には、八幡宮1号墳があり、古墳時代の円墳だそうです。その後、長峰城が築かれたと云われている。

◇八幡宮社入口





◇社殿







◇石垣





◇空堀

◇主郭

◇堀切か?


♢長峰城跡へのアクセス

杵築城跡

♢城郭情報
所在地:大分県杵築市杵築16−1
別名:木付城、勝山城、臥牛城
築城主:木付頼直
築城年:明徳5年(1394年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:木付氏、前田氏、宮部氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏、松平氏
遺構:土塁、堀切り(台山地区)、堀、石垣、庭園(藩主御殿地区)
再建造物:模擬天守
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:城山公園駐車場
御城印販売場所:杵築城窓口



【歴史】
木付氏は当初、竹ノ尾城を構えたが、明徳5年(1394年)に、木付頼直が杵築城(当時は木付城)を築き、城を移した。天正15年(1587年)島津義弘の部将新納武蔵守の攻撃を受けたが落城せず、城主木付鎮直が籠城して抗戦の末これを退けた。文録2年(1593年)大友義統は文禄の役で、敵前逃亡した罪により豊臣秀吉によって改易された。義統に従って出陣していた木付統直は自刃し、父鎮直も木付城内で自刃して果てた。これにより木付氏は17代で滅びた。文禄4年(1595年)前田玄以、宮部継潤が奉行を務めた後、慶長元年(1596年)に杉原長房の所領となる。長房は慶長2年(1597年)に台山北麓に居館を移した。慶長5年(1600年)には細川忠興の所領となり、重臣の有吉立行を城代として置いた。慶長6年(1601年)には松井康之が城代となっている。慶長13年(1608年)6月に落雷により天守は焼失したが、その後、再建された。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。正保2年(1645年)には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられた。以後代々松平氏が続いて明治に至る。正徳2年(1712年)、幕府の朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されていたため、幕府に伺いを立てた上で「杵築」と表記するようになり、従来、木付城と表記されていたこの城も、杵築城と表記されるようになった。











◇公園入口



◇杵築城址・杵築城御殿跡

◇景観

◇模擬天守

◇木村城石碑



◇青筵神社

◇青筵神社社殿


♢城跡へのアクセス

大友氏館跡

♢城郭情報
所在地:大分県大分市顕徳町3丁目2番45号
別名:なし
築城主:大友氏泰?
築城年:14世紀後半
廃城年:天正14年(1586年)焼失
主な城主:大友氏
遺構:なし
再建造物:居館跡、庭園、万寿寺跡
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:大友氏館跡駐車場

【歴史】
大友氏館は豊後国守護・大友氏泰が築いた居館です。現在の大分市市街地の東部、当時大分川の河口であった付近(現在の大分市顕徳町)に館を構え、この館を中心とする大友氏の城下町は府内と呼ばれた。大友氏館は一辺約200メートルの四辺形で、典型的な守護館であったと推定されている。最盛期にはほぼ九州一円を支配した大友宗麟はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。戦国時代の府内は、大友氏の城下町として、また、外国との貿易港として栄え、1557年(弘治3年)には日本で初めての西洋式の病院が開設され、1580年(天正8年)にはコレジオ(神学院)が設置されるなど、南蛮文化が花開いた。しかし、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻の際に焼き討ちに遭い、壊滅したとされる。

◇大友氏居館跡から出土した礎石と景石

◇大友氏館跡



◇大友氏館跡庭園

◇大友氏館跡庭園の見学コース案内

◇大友氏館跡

◇大友氏館跡説明板

◇大友氏館跡庭園




♢城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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