なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

府内城跡

♢城郭情報
所在地:大分県大分市荷揚町4−4
別名:大分城、荷揚城、白雉城
築城主:福原直高
築城年:1597年(慶長2年)
廃城年:1872年(明治5年)
主な城主:竹中氏、日根野氏、大給松平家
遺構:石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡(天守台)
再建造物:二重櫓3棟、大手門、土塀、廊下橋
指定文化財:県指定史跡(石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡1(天守台))、大分市指定史跡(県指定部分を除く城地)
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:岡城跡駐車場
入城料金:高校生以上 300円 小・中学生 150円(訪城日現在)
日本100名城:94番
スタンプ設置場所:大手門
御城印販売所:御城印は無し(訪城日時点)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
1586年(天正14年)、戸次川の戦いで大友氏館は焼失しますが、1593年(文禄2年)豊臣秀吉の臣下に入った大友義統が、文禄の役での失態のために改易される。1594年(文禄3年)早川長政が代官として府内に入り、大友氏館を改修して移り住んだと伝えられている。早川長政は、1597年(慶長2年)朝鮮攻めの際、援軍として落ち度があったとされ改易、同年、12万石を得て臼杵より転封した、石田三成の妹婿福原直高は、府内城(荷揚城)の築城を開始します。この場所は「荷落」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。1599年(慶長4年)4月、荷揚城完成。しかkし、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。1601年(慶長6年) 関ヶ原の戦いで西軍に付いた早川長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城し、荷揚城の大改修を開始する。1602年(慶長7年)天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成し、1607年(慶長12年)大改修が概ね終了する1634年(寛永11年)重利の子・重義が長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。1656年(明暦2年)吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩主稲葉信通が城代となる。1658年(万治元年)大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。





◇廊下橋

◇廊下橋説明板

◇廊下橋

◇冠木門跡礎石

◇冠木門の礎石説明板

◇松栄神社・稲荷大明神

◇松栄神社由緒書



◇慶長の石垣

◇慶長の石垣説明板

◇西丸西南隅櫓


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◇宗門櫓

◇宗門櫓説明板

◇大手門

◇大手門

◇大手門の廊下橋とかがみ石説明板

◇大手門の廊下橋とかがみ石の説明板

◇着到櫓

◇東丸東南隅櫓


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◇東丸東北隅櫓

◇天守台





◇天守台

◇天守台からの景観

◇天守台からの景観
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◇天守台からの景観

◇天守台からの景観

◇人柱お宮

◇人柱お宮の説明板








♢府内城跡へのアクセス

岡城跡

♢城郭情報
所在地:大分県竹田市大字竹田
別名:臥牛城、豊後竹田城
築城主:緒方惟栄
築城年:文治元年(1185年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:志賀氏、中川氏
遺構:石垣
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:岡城跡駐車場
入城料金:高校生以上 300円 小・中学生 150円(訪城日現在)
日本100名城:95番
スタンプ設置場所:岡城料金所(総役所跡)
御城印販売所:岡城料金所(総役所跡)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れた大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、志賀親次が島津氏の来攻を撃退し、豊臣秀吉から感状を受けた。その後、大友氏の改易とともに志賀氏が城を去り、1594年(文禄3年)に中川秀成が入封し、明治維新にいたるまで中川氏の支配が続くことになる。中川秀成は大規模な改修を行い、本丸の御三階櫓もこのときにできた。

◇岡城ガイドマップ



◇岡城説明板

◇大手道

◇大手門跡

◇大手門跡説明板

◇大手門跡

◇大手門跡

◇朱印状倉跡





◇西の丸跡





◇新屋敷門跡

◇西の丸御殿跡

◇西の丸説明板







◇中川旦見屋敷跡



◇家老屋敷の石垣

◇家老屋敷跡

◇家老屋敷跡

◇賭方跡

◇賭方跡説明板







◇中川民部屋敷跡

◇中川民部屋敷跡説明板

◇景観



◇近戸門跡
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◇近戸門跡説明板
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◇普請方跡

◇普請方跡



◇中川覚左衛門屋敷跡

◇中川覚左衛門屋敷跡説明板



◇中川覚左衛門屋敷跡
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◇中川覚左衛門屋敷跡
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◇埋門





◇古井戸

◇城代屋敷跡

◇籾倉跡

◇三の丸高石垣

◇貫木門跡

◇鐘櫓跡
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◇太鼓門跡



◇三の丸跡

◇二の丸跡

◇二の丸跡説明板

◇武具庫跡

◇二の丸の入り口付近にある空井戸跡

◇二の丸跡

◇二の丸にある滝廉太郎像

◇滝廉太郎説明板

◇月見櫓跡

◇本丸跡

◇御三階櫓跡

◇本丸跡

◇本丸跡にある岡城天満神社

◇岡城天満神社由緒

◇岡城説明板

◇金倉跡

◇堀切


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◇米倉跡

◇東の郭跡

◇御廟所跡

◇下原御門

◇下原御門

◇下原御門説明板

◇清水門跡


♢岡城跡へのアクセス

中津城跡

♢城郭情報
所在地:大分県中津市二ノ丁本丸
別名:中津川城、扇城、小犬丸城、丸山城
築城主:黒田孝高
築城年:天正16年(1588年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:黒田家、細川家、小笠原家、奥平家
遺構:石垣、堀
再建造物:本丸下段水堀
指定文化財:大分県指定史跡
訪城日:2023年5月4日(水)晴
駐車場:中津城 第1駐車場
続日本100名城:191番
スタンプ設置場所:中津城城内(9:00~17:00)
御城印販売場所:中津城天守内売店(9:00~17:00)
※スタンプ設置場所や御城印販売場所などに変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

中津城公式HP


【歴史】
天正15年(1587年) 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡を与えられ、馬ヶ岳城に入城した。天正16年(1588年) 黒田孝高(如水)は、中津城の築城を始める。同年、熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。城内には、城井鎮房を祀った城井神社がある。慶長5年(1600年)黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。同年、細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。慶長7年(1602年)忠興は小倉城を居城とし、修築中の中津城の城主は細川興秋になる。元和7年(1621年)扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。寛永9年(1632年)細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。享保2年(1717年)奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。明治4年(1871年)廃藩置県により中津県の県庁が置かれる。

◇大手門跡

◇大手門跡

◇大手門跡の石垣説明板

◇大手門跡説明板

◇御用屋敷遺跡

◇御用屋敷遺跡説明板

◇御用屋敷遺跡

◇御用屋敷遺跡

◇生田門

◇生田門と中津市学校の説明板







◇増築された石垣

◇増築された石垣説明板

◇中世の館と寺院跡

◇中世の館と寺院跡説明板



◇扇形の石垣(左側)

◇扇形の石垣説明板

◇三斎池

◇三斎池説明板

◇中津城の歴史

◇松の御殿跡に建つ中津神社

◇松の御殿説明板

◇黒田の石垣

◇黒田の石垣

◇水門跡

◇水門跡



◇城井神社
黒田氏によって中津城内で暗殺された城井谷城主・宇都宮鎮房を祀るために創建した神社。

◇城井神社由緒

◇中津大神宮

◇中津大神宮由緒

◇大鞁櫓(左)と模擬天守(右)



◇奥平神社

◇奥平神社由緒
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◇旧中津藩 奥平家説明板
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◇大鞁櫓

◇模擬天守





◇黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
正面から撮影すれば分かり易かったのですが・・・。

◇これだとわかりやすい

◇黒田本丸の石垣と細川時代の石垣説明板



◇黒田如水と正室光姫石像

◇黒田如水と正室光姫石像説明石板

◇黒御門跡


♢中津城跡へのアクセス

森陣屋跡

♢城郭情報
所在地:大分県玖珠郡玖珠町森
別名:久留島陣屋
築城主:来島長親(康親)
築城年:慶長6年(1601年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:来島長親(康親)
遺構:石垣、庭園跡、御門、茶屋
再建造物:碑
指定文化財:県史跡、県指定有形文化財(栖鳳楼)
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:

【歴史】
慶長6年(1601年)、来島長親によって豊後森藩が立藩された。長親は、慶長2年(1597年)、父の通総が慶長の役で戦死したため、家督を継いだが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍に属し所領を没収された。その後、伊予国来島から豊後森に一万四千石で所領を与えられ、角牟礼城を廃して、角埋山の山麓に陣屋を置いた。陣屋の敷地内には、来島氏の故地である伊予大三島の大山祇神社の祭神を勧請して三島神社が造営されていたが、天保8年(1837年)、第8代藩主の久留島通嘉が、三島神社の改築を口実として、石垣や茶屋の「栖鳳楼」を増築するとともに、藩主御殿庭園、栖鳳楼庭園、清水御門庭園を造らせ、城構えのように整えた。明治時代には、廃藩置県によって森藩は森県となり、森陣屋は森県庁となったが、ほどなく森県は大分県に合併した。森陣屋の建物は役所などに使われて昭和初期まで残っていたが、その後、一部を残して撤去されている。現在では、森陣屋の跡は三島公園として整備され、栖鳳楼や庭園が現存している。



◇森藩主久留島通嘉公像

◇喜藤次泣かせの石
喜藤次は三島宮(現末広神社)と庭園の造営に活躍した人夫使役。巨大な石を御殿裏御門前まで運んだがそれ以上全く進まず、流石に根気が尽きて地団駄を踏んで泣き出したという。そこで一乗寺の山伏を呼び祈祷し、何とか池畔に運ぶことができたためこの名で呼ばれるようになった。

◇御長坂

◇御長坂説明板



◇鐘櫓跡
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◇石垣

◇栖鳳楼

◇栖鳳楼説明板

◇末広神社

◇日本一大きな手水鉢

◇鞘堂づくりの神殿

◇鞘堂づくりの神殿説明板
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◇栖鳳楼

◇栖鳳楼茶亭見取図

◇丸木御門

◇清水御門

◇清水御門説明板

◇庭園

◇常夜灯

◇常夜灯説明板



◇旧久留島氏庭園

◇旧久留島氏庭園


♢森陣屋跡へのアクセス

角牟礼城跡

♢城郭情報
所在地:大分県玖珠郡玖珠町森
別名:角埋城
築城主:森朝通
築城年:弘安年間(1278年 ~1288年)
廃城年:慶長6年(1601年)
主な城主:森氏、毛利氏 (藤原氏)
遺構:曲輪、石垣、土塁、井戸、竪堀
再建造物:土塀
指定文化財:国の史跡
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:角牟礼城三の丸跡(駐車場)
続日本100名城:192番
スタンプ設置場所:豊後森藩資料館、くすまちメルサンホール
角牟礼城跡と伐株山城跡の御城印販売:豊後森藩資料館、くすまちメルサンホール

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
角牟礼城は、弘安年間(1278年~1288年)に玖珠郡衆の森朝通により天然の要害である角埋山(576メートル)に築かれたと伝えられる。ただし、史料においてその存在が確認できるのは、文明7年(1475年)が最初である。その後、戦国時代には、大内氏と大友氏との争いを背景により堅固に補強された。天正14年(1586年)の島津義弘による豊後侵攻の折には、玖珠郡衆が籠城したが、島津軍の攻撃にも落城することはありませんでした。文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、日田日隈城主の毛利高政が玖珠の拠点として角牟礼城を整備しましたが、慶長6年(1601年)に来島長親が入封し山麓に森陣屋を築いて角牟礼城は廃城となってしまいました。

◇伝三の丸跡

◇伝三の丸跡

◇伝三の丸跡

◇角牟礼城跡説明板

◇伝三の丸跡

◇二ノ丸西曲輪へ続く城道
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◇二の丸西曲輪跡

◇伝二の丸西曲輪跡

◇伝二の丸西曲輪の礎石建物跡

◇西門跡

◇西門跡


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◇本丸虎口

◇本丸

◇本丸

◇本丸

◇土塁


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◇伝二の丸跡



◇石垣





◇大手門跡





◇穴太積石垣

◇穴太積石垣





◇竪堀




♢角牟礼城城跡へのアクセス

永山城跡

♢城郭情報
所在地:大分県日田市丸山町
別名:丸山城、月隈城
築城主:小川光氏
築城年:慶長6年(1601年)
廃城年:寛永16年(1639年)
主な城主:小川氏、石川忠総
遺構:曲輪、石垣、堀
再建造物:土塀
指定文化財:大分県史跡
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:豆田北駐車場

【歴史】
1601年(慶長6年)に小川光氏が丸山城と称して築城したという。1616年(元和2年)に譜代大名の石川忠総が美濃大垣城から移封。丸山城を改築し永山城と改め、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町に改名した。1633年(寛永10年)に中津藩の預かりとなる。1639年(寛永16年)、小川正長・氏行両人が初代代官となり、永山城を廃城して麓に日田陣屋を築く。



◇陰徳倉碑

◇陰徳倉碑説明板



◇日田月隈横穴墓群

◇日田月隈横穴墓群


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◇帰安碑

◇帰安碑の説明板





◇月隈神社

◇月隈神社由緒

◇本丸虎口石垣





◇本丸跡石垣

◇本丸

◇永山夫布政所跡(日田陣屋跡)

◇永山夫布政所跡の説明板


※残念ながら明治時代の石垣と一部現存する水堀は未撮影

♢永山城跡へのアクセス

日隈城跡

♢城郭情報
所在地:大分県日田市庄手601
別名:日の隈城、隈城、亀翁城
築城主:宮城豊盛
築城年:文禄3年(1594年)
廃城年:元和2年(1616年)
主な城主:毛利氏(藤原氏)
遺構:曲輪、石垣
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:亀山公園 無料駐車場

【歴史】
1592年(文禄元年)蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた宮城豊盛によって築かれた。1596年(慶長元年)に毛利高政が移封され増築を施し、『豊西記』『豊西説話』によると「五階の天守」と「三階の櫓」が増築され、森春樹の『亀山鈔』によると城下には2重の堀と土塁が廻らされたとある。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに際し、中津領主であった黒田如水が、重臣の栗山利安を日田に送り込んで和議を図った。その年に毛利氏は城を開け渡し、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。慶長6年(1601年)、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封され、城は再び毛利高政の預かりとなり、城代に家老の毛利隼人を入れた。1602年(慶長7年)毛利高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなる。元和二年(1616年)以降、江戸幕府発布の一国一城令により廃城となった。破城は寛永年間(1624~44年)とされているが、松平直矩時代の日田陣屋(永山城)役宅増設の時、貞享元年(1684年)、「永山、隈居城…」と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでない。





◇大手虎口

◇:義民穴井六郎右衛門之碑

◇:義民穴井六郎右衛門之碑の説明板



◇日の隈神社鳥居



◇日の隈神社拝殿(かつてここに五層六重の天守が建っていた)

◇日の隈神社由緒


♢日隈城跡へのアクセス

久留米城跡

♢城郭情報
所在地:福岡県久留米市篠山町444
別名:笹原城、篠山城、篠原城、久留目城、来目城、雨城
築城主:不明
築城年:1504年 ~1521年(永正年間)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:毛利氏、田中氏、摂津有馬氏
遺構:石垣、堀
再建造物:なし
指定文化財:福岡県文化財
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:有馬記念館篠山神社駐車場
続日本100名城:183番
スタンプ設置場所:篠山神社社務所
御城印販売場所:御城印は無し(篠山神社の御朱印はあり)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
室町時代後期の永正年間(1504年 ~1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。天文年間(1532年 ~1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。 1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州を平定すると、13万石で筑後久留米に封じられた毛利秀包(小早川秀包)篠原城の堀を掘削し石垣を積み天守を置くなど、大改築を行った。秀包は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後改易となった。戦後は久留米城は柳川城の支城とし田中吉政二男の吉信を城主とした。1615年(慶長20年)に出された一国一城令により廃城となる。元和6年(1620年)吉政の子、忠政は嗣子なく没し、筑後柳川藩田中氏は改易となった。かわって1621年(元和7年)、有馬豊氏が。大幅に加増され封じられた。豊氏は、廃城も同然にまで荒れ果てた久留米城を黒田長政の助力も得ながら、大規模に拡張した。以後、明治維新まで久留米城は有馬氏の居城となった。1871年(明治4年)の廃藩置県により久留米城は廃城となった。現在は本丸に有馬記念館と篠山神社が建てられ、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となっている。

◇蜜柑丸跡
本丸東側にあった腰郭。蜜柑の木が植えられていたことから「蜜柑丸」と呼ばれていた。

◇蜜柑丸から望む巽櫓の石垣

◇堀

◇大手口


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◇冠木御門跡

◇久留米城説明板



◇太鼓櫓跡
本丸南に上げられていた三重櫓。冠木御門の西にあった。現在は櫓台石垣が残っている。



◇本丸御殿に建つ篠山神社本殿

◇乾櫓跡
本丸北西(戌亥の方角)に上げられていた三重櫓。
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◇景観

◇艮櫓跡
本丸北東(丑寅の方角)に上げられていた三重櫓。現在は石垣が現存している

◇艮櫓跡石垣

◇月見櫓跡

◇本丸御殿跡

◇本丸御殿跡

◇巽櫓跡

◇篠山神社のご祭神




♢久留米城跡へのアクセス

吉野ケ里遺跡

♢城郭情報
所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市
別名:なし
築城主:不明
築城年:弥生時代後期
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:貯蔵穴、土坑、横堀(空堀)
再建造物:一部盛土の上遺構を復元し公園化
指定文化財:国指定特別史跡
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:東口駐車場・西口駐車場・北口駐車場(すべて有料)
日本100名城:88番
スタンプ設置場所:吉野ヶ里歴史公園東口
御城印販売場所:なし

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されており、紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5400人くらいの人々が住んでいたと推測される。古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。







◇外濠

◇外濠

◇逆茂木(乱杭)

◇外濠は土塁と柵、逆茂木・乱杭で防衛が図られた
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◇南のムラ集落



◇北の一家







◇兵士の倉
この地域で暮らしている兵士の生活道具を収めています

◇市長の住居
市を収める市長は、この区域で暮らしながら市の管理をします。

◇環濠と土塁

◇環濠と土塁説明板







◇南内郭の門と南内郭

◇南内郭

◇北内郭

◇王の宮殿
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◇北内郭発掘当時の状況

◇最高司祭者の神がかりの様子



◇北墳丘墓・立柱・祠堂・墓道

◇北墳丘墓・立柱・祠堂・墓道説明板

◇中のムラと倉庫群

◇中のムラと倉庫群の説明板
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♢吉野ケ里遺跡へのアクセス

佐賀城跡

♢城郭情報
所在地:佐賀県佐賀市城内2丁目18-1
別名:龍造寺佐賀城、村中城、佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城
築城主:龍造寺氏・鍋島直茂・勝茂
築城年:1602年(慶長7年)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:龍造寺氏・鍋島氏
遺構:鯱の門及び続櫓、移築御座の間、石垣、堀、土塁
再建造物:御殿(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)
指定文化財:国の重要文化財(鯱の門及び続櫓)・佐賀県史跡・佐賀市重要文化財(御座の間)
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:佐賀城本丸歴史館駐車場
続日本100名城:89番
スタンプ設置場所:佐賀城本丸歴史館
御城印販売場所:佐賀城本丸歴史館

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

◇佐賀県立 佐賀城本丸歴史館HP


【歴史】
佐賀城は、1608年(慶長13年)龍造寺氏の居城であった佐賀龍造寺城(村中城)を、家臣であった鍋島直茂・勝茂親子が改修・拡張して築城したものであり、幅50m以上の広い内堀と幾重もの外堀を巡らし、巨大な五重天守が建てられていた。

◇佐賀城天守台
正保4年(1647年)に記された『肥前国佐賀城覚書』によれば、かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。本丸からは、この天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。初代藩主鍋島勝茂の時代、慶長14年(1609年)に完成した佐賀城の天守閣は五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であった。佐賀城は、八反井樋と今宿江をせき止めれば天守と本丸の一部を除き、外は城下はじめ、全体が湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む仕組みになっていたといわれている。このため佐賀城を一名「沈み城」というのはこのことに由来する。だが、一説には他の城は城下から離れれば離れるほど、その天守が高々とそびえて見えるのに対して、佐賀城は城下を少し遠ざかると、楠や松の木に隠れて見えなくなるためだともいわれている。しかし、佐賀城は享保11年(1726年)、四代藩主吉茂のとき、本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失した。その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今にいたる。
『現地案内板より』

◇佐賀城鯱の門及び続櫓
本丸御殿は慶長13年(1608年)から慶長十六年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726年)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。ところが、この二の丸も天保6年(1835年)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。十代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838年)の6月に完成したものです。明治7年(1874年)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。
『現地案内板より』

◇鍋島直正公像

◇鍋島直正公の説明板

◇鯱の門・続櫓

◇鯱

◇正面に天守台



◇堀





◇24ポンドカノン砲(複製)



◇本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)




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◇土塁
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◇西南櫓台



◇西南櫓台

◇西南櫓台からみた風景

◇西南櫓台からみた中庭

◇西南櫓台から見た堀

◇西側土塁石垣と門

◇西側土塁石垣と門説明板

◇西側土塁

◇西側土塁石垣

◇天守台へ
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◇天守台への枡形状の通路
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◇天守台への枡形状の通路

◇天守台

◇天守台



◇石製樋管と赤石積水路

◇石製樋管と赤石積水路説明板

◇二の丸

◇二の丸説明板


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