所在地:宮城県多賀城市市川
別名:なし
築城年:神亀元年(724年)
築城主:大野東人
廃城年:不明
主な城主:大野東人
遺構:政庁跡など
再建造物:
指定文化財:国特別指定史跡
訪城日:2022年8月10日(火)晴
駐車場:多賀城管理事務所駐車場など
日本100名城:No7
スタンプ設置場所:多賀城跡管理事務所(多賀城政庁跡北側)
※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。
【歴史】
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。天平宝字6年(762年)に、藤原恵美朝狩が改修、宝亀11年(780年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、貞観11年(896年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、そして、11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894年)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載されている。
◆多賀城管理事務所
◆説明板
◆
◆政庁南大路跡
◆政庁南大路跡の説明板
◆排水用石組桝
◆排水用石組桝の説明板
◆
◆多賀城南門
◆多賀城碑
◆多賀城碑の説明板
◆
◆
◆
◆政庁南大路の石垣(再現)
◆政庁南門跡
◆政庁南門跡の説明板
◆政庁復元模型
◆東翼廊跡
◆
◆政庁正殿跡
◆政庁正殿跡の説明板
◆政庁東殿跡
◆政庁東殿跡の説明板
◆土塁
◆
◆六月坂地区の役所跡
◆六月坂地区の役所跡の説明板
◆建物跡
◆
◆
◆
◆外郭北東隅
◆
◆外郭東門跡
◆外郭東門跡
◆外郭東門跡の説明板
◆掘立柱式建物
◆掘立柱式建物の説明板
◆
◆東門北櫓跡
◆東門北櫓跡の説明板
◆外郭櫓跡
◆
◆外郭東門路(平安時代の敷石道路)
◆役所群の北門と塀
◆役所群の北門と塀の説明板
♢多賀城へのアクセス
別名:なし
築城年:神亀元年(724年)
築城主:大野東人
廃城年:不明
主な城主:大野東人
遺構:政庁跡など
再建造物:
指定文化財:国特別指定史跡
訪城日:2022年8月10日(火)晴
駐車場:多賀城管理事務所駐車場など
日本100名城:No7
スタンプ設置場所:多賀城跡管理事務所(多賀城政庁跡北側)
※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。
【歴史】
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。天平宝字6年(762年)に、藤原恵美朝狩が改修、宝亀11年(780年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、貞観11年(896年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、そして、11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894年)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載されている。
◆多賀城管理事務所
◆説明板
◆
◆政庁南大路跡
◆政庁南大路跡の説明板
◆排水用石組桝
◆排水用石組桝の説明板
◆
◆多賀城南門
◆多賀城碑
◆多賀城碑の説明板
◆
◆
◆
◆政庁南大路の石垣(再現)
◆政庁南門跡
◆政庁南門跡の説明板
◆政庁復元模型
◆東翼廊跡
◆
◆政庁正殿跡
◆政庁正殿跡の説明板
◆政庁東殿跡
◆政庁東殿跡の説明板
◆土塁
◆
◆六月坂地区の役所跡
◆六月坂地区の役所跡の説明板
◆建物跡
◆
◆
◆
◆外郭北東隅
◆
◆外郭東門跡
◆外郭東門跡
◆外郭東門跡の説明板
◆掘立柱式建物
◆掘立柱式建物の説明板
◆
◆東門北櫓跡
◆東門北櫓跡の説明板
◆外郭櫓跡
◆
◆外郭東門路(平安時代の敷石道路)
◆役所群の北門と塀
◆役所群の北門と塀の説明板
♢多賀城へのアクセス