♢城郭情報
所在地:愛知県名古屋市守山区市場
別名:なし
築城主:不詳
築城年:不詳
廃城年:不詳
主な城主:松平信定・織田信光・織田信次など
遺構:本丸の一部、空堀
再建造物:なし
指定文化財:未指定
訪城日:2023年11月24日(金)晴
駐車場:なし

【歴史】
守山城は、現在の宝勝寺一帯にあって、東西約58m、南北約52mほどで一重の堀を巡らす平山城であった。大永元年(1521年)今川氏親が那古屋城を築いた頃、小幡城・川村城に対応して築かれたといわれているが定かではない。1526年(大永6年)、松平信定が領有したころ、連歌師宗長が訪れ連歌を催し「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ記録があり、これが「守山」と記された初見である。1535年(天文4年)には織田信秀の弟信光(松平信定の娘婿)の居城となっていたが、松平清康は織田信秀を討つため信光が籠る守山城に侵攻する。そして、守山布陣の翌日、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを阿部正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を惨殺したとされる。正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は岡崎に撤退する。世に言う「守山崩れ」である。『信長公記』によると、1555年(弘治元年)、信長・信光により清洲織田氏の織田信友が攻め滅ぼされた後、信光は、清洲城を信長公に渡し、みずからは那古野城に引き揚げた。、代わりに信光の弟の信次が入った。しかし早々に信次の家臣が信長の弟秀孝を殺害するという事件を起こしたために出奔。信行はこの報せを聞いて守山に攻め寄せ、城下に放火した。城には信次殿の家臣たちが立てこもっていたが、佐久間信盛が城衆の説得にあたり、信長の異母弟信時を城主とすることで決着した。しかし、信時が、若衆を重用したことで家老と不和になり、殺害されてしまった。この事件を受けて信長は孫十郎信次を守山城主とした。天正2年(1574年)信次は長島一向一揆戦において戦没した。廃城の時期は、桶狭間の戦いの後とも、後に城主に返り咲いたという信次の死後とも、長久手の戦いの後とも言われる。
参考文献『信長公記』『日本城郭大系9』







◇主郭

◇守山城跡石碑

◇主郭からの景色


♢守山城跡へのアクセス