所在地:福井県敦賀市金ケ崎町1-1
別名:敦賀城
築城年:平安時代後期
築城主:平通盛
廃城年:不明
主な城主:気比氏、甲斐氏、朝倉氏
遺構:月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切
再建造物:城址石碑,案内板
指定文化財:国指定史跡(金ヶ崎城跡)
訪城日:2020年8月8日(土)
駐車場:金ヶ崎古戦場入口駐車場(無料)

♢歴史
敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城である。 治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
1336年(延元元年/建武3年)、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。翌1337年(延元2年/建武4年)、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直す。義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、落城する。
1338年(延元3年/暦応元年)には越前の軍事的主導権を握った義貞に奪還されるが、その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。

1459年(長禄3年)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり(やがて長禄合戦に発展)、古河公方足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗した。この戦いは8代将軍足利義政の怒りを買い義敏は失脚した。

朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。 1570年(元亀元年)、援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退する(金ヶ崎の戦い)。 『日本城郭大系11参照』


■金ヶ崎古戦場入口駐車場にある金ヶ崎城・天筒山城案内碑

■誓法山 金前寺



■金崎宮参道

■金ヶ崎案内図

■金ヶ崎城石標

■恒良親王御墓所見込地

■案内板



■南北朝時代の金ヶ崎の戦いの古戦場碑

■月見御殿(本丸)跡
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■月見御殿(本丸)跡
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■金ヶ崎城跡から天筒山城の展望台が見えます

この後、三の木戸方面に行かずに来た道を戻ってしまいました。

♢金ヶ崎城跡へのアクセス
①カーナビの検索で金ヶ崎宮(かねがさきぐう)と検索すると駐車場に行くことができます。