所在地:京都市中京区大宮通御池下ル三坊大宮町137
別名:なし
築城年:寛文年間(1661~1673年)
築城主:萬屋平右衛門
廃城年:不明
主な城主:小川氏
遺構:家屋
再建造物:木碑,案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし
事前に予約が必要です。詳しくは二條陣屋公式HPをご覧ください

♢歴史
古文書の残すところによれば、寛政3年(1791年)以後、商人「萬屋平右衛門」の屋敷であって、当地において米・両替商を営むとあります。萬屋平右衛門の萬屋は屋号であって、商人が苗字を名乗ることは特別の場合を除き、許されていません。屋敷は二条城の南側、川西(堀川の西側)にあって、京都所司代屋敷、東西の京都町奉行、六角獄舎など幕府の司法関係の建物が集まる地区にありました。京都所司代や京都町奉行は、一定様式の訴状を要求します。公事師はそれを代書したり、罪人への面会を手続きしたりすることで、手数料収入を得ることができました。
また、上洛してすぐに裁判が始まるとは限らず、判決が出るまでにも時間がかかります。裁判待ちの大名は公事師の屋敷に逗留するようになり、公事宿と呼ばれるようになりました。
萬屋平右衛門の公事宿は、その地の利をさらに活かし、藩邸を持たない地方の大名に対し、上洛宿としても屋敷を提供するようになり、後には商人でありながら小川姓を名乗ることを許され、西国大名の御用達ごようたし(おかかえの商人)となります。
現存する屋敷は、過去の火災、改築等により、創建当時の店構えは見ることができませんが、各室の趣向を凝らした意匠と客の安全を図るための巧妙な防衛建築は、創建当時の造作を引き継ぐものと思われます。

♢小川家について
小川家の先祖は、墓に彫られた墓誌(略歴)により、伊予国今治(愛媛県) の領主「小川土佐守祐忠」と言われます。小川祐忠は豊臣秀吉の家臣で、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、当初西軍に味方していたものの小早川秀秋に呼応し、東軍に寝返ります。東軍に寝返ったことで、合戦直後はその所領を保持しますが、徳川家康は祐忠の裏切りを黙認せず、結局、小川家の所領を没収します。祐忠は合戦の数年後に没していますが、その子千橘せんきつが改名し、当地において商人「萬屋平右衛門」として身を立て直したというものです。しかし、千橘が本当に祐忠の子であったのか信憑性に欠けます。
この他に、先祖は大和国吉野郡小川郷(奈良県吉野郡東吉野村)の豪族小川氏で、千橘はその末裔との言い伝えがあります。
当家には「春日の間」という奈良の故郷を偲んで作られた部屋があり、「木薬屋平右衛門」と名乗った時の金看板が現存します。吉野郡は薬草の産地として有名で、当地の出身であるからこそ、薬種商も営むことができたと考えられます。また、小川郷は、鎌倉、室町時代に奈良の興福寺に属した寺領荘園(国の租税免除のために寺院に寄進した荘園)であり、小川氏は荘園の荘官(荘園の管理者)であったと推定されます。千橘は、荘官に必要な公事訴訟、出納の知識を持ち合わせており、公事宿や米・両替商を営むことができたと考えられ、当屋敷の創建が京都に町奉行ができた寛文8年(1668年)と同時期であることからも、後者の言い伝えは信憑性が高いと言えます。『より二条陣屋の公式サイトより抜粋』


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