なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

北海道

洲崎館跡

所在地:北海道檜山郡上ノ国町字北村92
別名:なし
築城年:長禄元年(1457年)
築城主:武田信廣
廃城年:不明
主な城主:武田信廣,蛎崎氏
遺構:曲輪、空堀、土塁、城跡石碑、案内板
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月13日(木)
駐車場:鳥居の傍に駐車スペース

♢歴史
本道最古の記録である「新羅之記録」には、長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いで功をあげた武田信廣が上之国守護蠣崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、同年築いた館であると記録されています。
また松前藩の記録である「福山秘府」には、信廣はこの時、「建国の大礼」を行ったとの記述もあります。その後信廣は夷王山の麓に勝山館を築き、松前藩300年の基を作りました。
館の構造については未調査の部分が多く、不明な点も多いのですが面積は約6万7000㎡で館内からは、銭2,500枚、青磁、白磁、国産の珠洲擂鉢や人骨が発見されており建物の柱穴などが多数出土。洲崎館は、蠣崎氏が天の川北岸への勢力拡大の始まりとなる館跡として、非常に重要な拠点として16世紀初頭まで機能しています。


■鳥居横の城跡石碑と案内板

■案内板





■砂館神社拝殿

■空堀と土塁
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■土塁と曲輪

■土塁


♢洲崎館跡へのアクセス

花沢館跡

所在地:北海道檜山郡上ノ国町字勝山
別名:花見岱館、花見館、上之国花沢館
築城年:嘉吉3年(1443年)
築城主:不明(小山隆政の築城とも)
廃城年:寛正3年(1462年)
主な城主:蠣崎氏
遺構:曲輪、堀切、土塁、城跡石碑、案内板
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月13日(木)晴
駐車場:登城口に数台程度のスペース


♢歴史
15世紀頃、渡党と称する本州系の人々が、北海道南部への進出拠点として築いたとされる道南12館の一つです。
この頃の渡島半島は、津軽の安藤氏の支配下にあり、「下之国」(北斗市を中心とした地域)、「松前」(松前町を中心とした地域)、「上之国」(上ノ国町を中心とした地域)にそれぞれ守護が置かれていました。
本道最古の記録である「新羅之記録」には、花沢館の館主蠣崎季繁が長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際に堅く守ったと書かれています。
館本体は、国道に面しており、その規模は南北に長さ200m、最大幅80m程あり、館直下から頂上部までは約50mの比高差があります。大きくみると、その構造は南から北へ大小6段の平坦部に分かれています。
昭和20年頃頂上部から約2,000枚の銭が、平成2年には館後方部から珠洲焼の擂鉢が採集されていました。近年、館後方の空壕、頂上、その他平坦部などの部分的な発掘調査が行われました。その結果、館後方から幅11m、深さ3.9mの大きな堀が確認され、頂上からは、溝や柱穴、15世紀代の珠洲焼の擂鉢や中国製の青磁や白磁、銭、釘や鋸などの鉄製品が発見されました。また他の平坦部からも溝、柵跡が発見されています。陶磁器の年代から見ると、すべて15世紀代のもので16世紀代に勝山館跡が本格的に機能し始める前に既に廃城になっていたことがわかりました。
松前藩の記録である「福山秘府」には、寛正3年(1462年)の夏、蠣崎季繁が没したと書かれており、年代的には文献とほぼ照合する結果となりました。
今後、更に本格的な発掘調査を行い、館の全容やその構造を明らかにする必要があります。
『現地案内板より』



■花沢館登城口



■花沢館説明板

■平坦地

■こちらの斜面で男性学芸員の方が発掘調査をしていました。少し調査内容を教えてもらいましたが、訪問時はまだ一般非公開ということで、発掘場所の撮影は控えて下さいとのことでした。

■新聞報道でも話題になった懸仏が出土したエリアでも3人の女性が発掘調査作業をしてましたので奥の方までは行けませんでした。


♢花沢館へのアクセス

勝山館跡

所在地:北海道檜山郡上ノ国町字勝山
別名:上之国館、和喜の館
築城年:1473年(文明5年)?
築城主:蠣崎信広
廃城年:不明
主な城主:蠣崎信広、蠣崎光広
遺構:曲輪
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月13日(木)晴
駐車場:勝山館無料駐車場

♢歴史
勝山館は松前藩を開いた松前氏の祖、武田信廣が15世紀後半に築いた山城。館北端にある館神八幡宮(たてがみはちまんぐう)の創建は文明5年(1473年)と伝えられている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされていたが、光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として脇館転じて「和喜の館」と称され一族を配した。

夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する。さらに城の背後から山頂に向かって中世和人の墳墓群(夷王山墳墓群)が存在する。

発掘調査が30年以上続いており、10万点余りの出土品、道具や建物、井戸、橋の跡などが見つかっています。出土品からは中世の山城の暮らしぶりを知ることができ、ここでアイヌと和人が混住していたことが分かってきています。

2017年(平成29年)続日本100名城(102番)に選定された。



■アイヌ墓



■勝山館後ろの守り解説版
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■搦手
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■搦手の構え解説版

■ごみ捨て場跡・土葬墓群

■解説版

■空堀

■空堀

■搦手門跡

■江戸再建社跡

■室町再建社跡

■館神八幡宮解説版

■階段跡

■掘立柱建物跡



■東の厳重な守り解説版







■中央通りと櫓門解説版

■居住跡

■居住跡解説版



■客殿跡

■客殿跡解説版

■井戸跡・板塀跡



■馬屋跡





■柵列


♢勝山館へのアクセス
国道228号線を松前方面へ、「道の駅上ノ国もんじゅ」手前を左折して車で約5分

松前城跡

所在地:北海道松前郡松前町松城144
別名:福山城、松前福山城
築城年:慶長11年(1606年)(福山館)
築城主:松前崇広(福山館)
廃城年:明治6年(1874年)
主な城主:松前(蠣崎)氏
遺構:本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁、堀
指定文化財:国指定史跡、
      国の重要文化財(本丸御門)
      北海道有形文化財(御殿玄関)
訪城日:2020年8月13日(木)晴
駐車場:無料駐車場あり
入館料:大人360円、小・中学生240円、幼児無料
(2020年2020年8月13日現在)
♢日本100名城スタンプ設置場所
 松前城資料館施設内

♢歴史
蠣崎氏はこの慶広の代まで徳山館を拠点にして政治を行ってきたが、慶長五年(1600年)慶広が大坂から帰藩するや、海岸部に突出した福山の台地に築城を開始し、六年後の慶長11年(1606年)年に完成、正式には陣屋または館であり、福山と名づけました。
1849年(嘉永2年)江戸幕府は異国船到来の増加を受けた海防強化のため、松前12代藩主となった松前崇広に、新たに築城を命じました。
城は、箱館移転と福山館拡張の二案がありましたが、幕府の採決により福山館拡張で決定しました。

城は本丸から三の丸まで総面積21,074坪で、三重櫓、二重櫓、太鼓櫓が建てられた。城の強化のため、外郭石垣の輪郭を大きくし、さらに内側に二重の石垣を設置。建物の壁も、その外側に落とし板が付けられた。また旧式城郭として異例の砲台が三の丸に7つ置かれ、城のほかにも海岸砲台が16砲台33門築造された。

明治元年(1868年)の箱館戦争では、土方歳三が率いる旧幕府軍に攻め落とされたが、翌年、新政府軍が奪回した。明治維新後、天守などを除く城の大半が取り壊されたが、天守は国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし1949年(昭和24年)類焼により天守と本丸御門東塀を全焼。
焼失を免れた本丸御門は修理工事をなされ、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により重要文化財に指定された。

■二重太鼓櫓跡
この櫓は、二ノ丸南東隅にあり、城内3ヶ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を監視するうえで、最も重要な位置にあって海上はもとより海岸線、市街地、三の丸と広範囲を見渡すことが出来ました。

■多門櫓跡

松前城説明板



■搦手二ノ門跡

■外堀

■番所跡
この番所は、搦手升形へ通ずる外堀に架かる木橋脇にあり、木橋の守備及び三ノ丸地域の警備のために置かれています。三ノ丸には同様の番所がもう一か所あり、追手升形に通ずる木橋脇にもあります。

■天神坂門跡





■本丸御門と再建天守
天守台石垣には砲弾跡が残っています。。

■本丸御門

■旧福山城本丸表御殿玄関

■隅櫓跡

■隅櫓説明板





■旧福山城北の丸跡にある松前神社



■外堀跡

■松前藩主松前家墓所

■松前藩主松前家墓所解説版
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■松前家系譜


♢松前城へのアクセス

大館跡

所在地:北海道松前郡松前町神明
別名:松前大館、徳山館
築城年:永正11年(1514年)
築城主:安東定季
廃城年:慶長11年(1606年)
主な城主:安東氏、下国氏、相原氏、蠣崎(松前)氏
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
指定文化財:国指定史跡(大館跡)
訪城日:2020年8月13日(木)晴
駐車場:松前町立図書館駐車場

♢歴史
大館跡は、松前町字神明から字福山にかけての丘陵地、勝軍山の裾野が街の中に. 突出した舌状台地上にあり、東はバッコ沢、西は小館沢に挟まれ、前方に大松前川が流れる標高45~55mの天然の要害である。
大館は、「道南十二館」の一つで、蝦夷管領安東氏が同族の下国定季を館主として配置し蝦夷地で安東氏の代官を行っていた館です。康正2年(1456年)コシャマインの戦いにより十二館のうち、茂別、花沢の2館が残り、この時花沢(上ノ国)館主の蠣崎李繁の客セン将である武田信廣(のちの松前家1世)がコシャマイン父子を倒した。その後大館は下国定季の子恒李が館主となったが、粗暴の行状が多く、明応5年(1496年)、同族によって自害させられ、代わって相原李胤が充てられ大館を守られた。永正10年(1513年)にアイヌとの戦い(大館合戦)が起こり相原氏は滅びました。
翌11年(1514年)花沢(上ノ国)館主2世光廣は,小舟180余隻で松前大館に移り、館名を徳山館と改め、後に安東氏の代官となった。
蠣崎氏(のちの松前氏)は2世光廣、3世義廣、4世季廣、5世慶廣と4代にわたり大館を拠点としました。その後、アイヌとの戦いがしばらく続き、ついにアイヌと和睦して蝦夷地のうちの和人地を掌握しました。
大館は、慶長11年(1606年)に福山館に移転するまでの間、蝦夷地経営の拠点として重要な役割を果たしました。『松前町HPより引用』


■徳山大神宮

■徳山大神宮説明板

■徳山大神宮社殿

■ブローウニン幽閉地の石碑がある左手の沢を渡った所(民家裏)が登り口となっています。

■堀切

■堀切

■小館跡

■大館跡

■大館虎口堀切



♢大館跡へのアクセス

穏内館跡

所在地:北海道松前郡福島町館崎350−15
別名:なし
築城年:不明
築城主:菰土(薦槌)季直
廃城年:不明
主な城主:菰土(薦槌)氏
遺構:城跡木標
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月13日(木)晴
駐車場:なし

♢歴史
『新羅之記録』に出てくる穏内館主土こもつち氏とは、どのような出自の人であるかは不明である。同家の祖はこも槌甲斐守季直としており、二世は兵庫介季成となっている。こも土氏が、安藤氏の永享10年(1439年)の南部氏との戦いに敗れて蝦夷地に流入の際に同行して渡航してきたものか、それとも元享元年(1321年)以降の安藤氏同族の争乱の際、敗戦渡航して蝦夷地に入って館主になったかはよく分からない。

長禄元年(1457年)の蝦夷の蜂起の際、こも土季直は館の陥落によって、一時上ノ国の蠣崎氏の元に逃れたと思われるが、その後再び穏内に帰り寛正年間(1460~65年)穏内館に没したと考えられている。

こも土家の二世兵庫之介季成は、父季直の後を承け穏内館主となったが、天文年間(1532~54年)に息女一人を儲け、男子なく季成の没後館は廃絶となった。

青函海底トンネル工事中、穏内館地下遺構に突き当り、作業を中断して緊急発掘調査を実施することになった。発掘調査の結果、穏内館は約80メ-トル四方にL字形の空濠を巡らした館の本体とその北西にも副郭があったと思われる。濠は深さ2~1.5メ-トル、幅5~7メ-トルで、V字状に掘り下げ、その土を両側に盛り上げ構成していた。調査の結果 では表層の撹乱が激しいため柵跡や館の本体建造物の痕跡も確認はできなかった。 『福島町史第2巻 通説編上巻より抜粋』






♢穏内館跡へのアクセス

茂別館跡

所在地:北海道北斗市矢不来138
別名:茂辺地館、下国館、矢不来館
築城年:嘉吉3年(1443年)
築城主:安東太郎盛季
廃城年:不明
主な城主:安東氏、茂別氏
遺構:土塁、案内板、空堀、郭
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月13日(木)晴
駐車場:矢不来天満宮境内

♢歴史
「新羅之記録」等によれば、茂別館は、嘉吉3年(1443)、津軽十三湊城主安東太郎盛季が南部氏に敗れて蝦夷島に渡った時、館を造ったのに始まり、享徳3年(1454)、安東政季が南部氏に追われて蝦夷島に渡り、康正2年(1456)、出羽国に去るまでここに居し、のち、その弟と考えられる下国安東八郎家政が箱館の河野政通に援けられて、この館を守護したという。長禄元年(1457)5月、東部の〓(*1)長コシャマインが大蜂起し、和人の諸豪が拠っていた志濃里館・箱館をはじめとする道南の諸館は相次いで攻め陥されたが、茂別館と上之国花沢館の2館だけが辛ろうじて残ったという。その後、下国(安東)氏は福山(松前)藩に属し、茂別の地付近を有して代々藩で重きをなした。
茂別館は、茂辺地川左岸の丘地の南端に位置し、南の大館、北の小館とから成っている。西は茂辺地川岸の崖地で、南と北は自然の沢で限られ、大館の東は掘り切られて空豪となり、小館の東は沢となっている。大館と小館は自然の沢で画される。大館・小館とも北・東・南の三方に土塁をめぐらしており、また、各館内にも仕切状土塁が認められるが、大館のそれは後世の改変にかかるもののようである。
道内の室町時代の和人の館のうち、志苔館・上之国勝山館跡・上之国花沢館・大館は、史跡に指定されているが、今回これに茂別館を加え、蝦夷島中世史の解明に資さんとするものである。
『現地案内板より』



■茂別館案内板







■大館跡にある矢不来天満宮






♢茂別館跡へのアクセス

松前藩戸切地陣屋跡

所在地:北海道北斗市野崎
別名:穴平陣屋、松前陣屋、清川陣屋
築城年:1855年(安政2年)
築城主:松前崇広(松前藩)
廃城年:明治元年(1868年)
主な城主:松前崇広(松前藩)
遺構:建物跡、土塁、空堀、砲台、案内板
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:無料駐車場あり

♢歴史
江戸時代末期の箱館開港に伴い、江戸幕府の命により松前藩が蝦夷地防衛のため1855年(安政2年)に構築した日本国内初の西洋式星型要塞。松前藩士藤原主馬の設計によって縄張りされた。四稜郭で6基の砲座が添えられる構造となっており、郭内には17棟の建物跡があって120~160名の松前藩士らが生活していたと考えられている。1868年(明治元年)の箱館戦争では、蝦夷地に上陸した旧幕府軍が進撃してきたため、10月23日に守備隊自らが火を放って撤退した。名称について穴平陣屋、松前陣屋、清川陣屋などと呼ばれていたが、1965年(昭和40年)に国の「史跡」指定となった後は「松前藩戸切地陣屋跡」としている。

■復元された表御門

■案内板

■表御門横空堀
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■表御門砲台側空堀

■馬隠し土塁

■大砲入跡





■道場跡

■鉄砲入跡

■土塁

■米蔵跡

■味噌蔵跡

■文庫跡

■足軽長家跡

■諸士詰所跡

■備頭・目付詰所跡

■風呂屋跡

■足軽詰所跡

■武器庫跡

■裏御門

■裏御門空堀

■裏御門空堀

■炭蔵跡


♢松前藩戸切地陣屋跡へのアクセス

千代ヶ岱陣屋跡(千代ヶ岡台場)

所在地:北海道函館市千代台町
別名:千代ヶ岡陣屋、津軽陣屋
築城年:文化5年(1808年)
築城主:仙台藩
廃城年:明治2年(1869年)
主な城主:仙台藩、弘前藩、旧場幕府軍
遺構:案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:なし

◇現地観光説明板
文化5年(1808年)、幕府から蝦夷地(北海道)の警備を命じられた仙台藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯に、東西約130m、南北約150mの土塁を築き陣屋を置いたのが最初である。
安政2年(1855年)には、幕府が津軽藩に対して、西は乙部から神威岬まで、東は箱館から恵山岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、ここを元陣屋として受け持ったので、津軽陣屋、あるいは、このあたりの地名を取って千代ヶ岡陣屋とも呼ばれた。
明治元年(1868年)10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍が、五稜郭を本拠に弁天台場や津軽藩が引き揚げて空塁になっていた千代ヶ岡に兵を配置したが、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助らは壮烈な最期を遂げ、この陣屋は陥落した。 函館市










♢千代ヶ岱陣屋跡へのアクセス
寄っていませんが、近くには中島三郎助父子最後之地があります

南部藩陣屋跡

所在地:北海道函館市元町18
別名:なし
築城年:寛政11年(1799年)
築城主:南部藩
廃城年:慶応4年(1868年)
主な城主:南部藩
遺構:石垣、案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年8月12日(水)晴
駐車場:函館山ロープウェイ駐車場

幕府が蝦夷地(北海道)を初めて直轄した時代(1799年~1821年)、幕府の命により南部藩が蝦夷地を警備するための陣屋跡で、敷地は、当初16,200㎡ほどであったが、19,800㎡増して36,000㎡以上となった。
建物は極めて粗末で、ここには相当な人数が勤務し越冬していたが、病人がたくさん出た。(文化4年には342人勤務、うち150人越冬)
後の幕領時代(1854年~1867年)にもここを陣屋として再建し、約300人が勤務していた。
明治元年戊辰戦が東北に及び国元を守備する為、同年8月11日夜、イギリス人ブラキストンから雇入れた汽船に乗って箱館を引き揚げ、南部へ帰った。『南部藩陣屋跡案内板』より







■函館山頂上からの展望


♢南部藩陣屋跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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