なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

京都府

如意岳城跡

所在地:京都府京都市左京区鹿ヶ谷大黒谷町(大文字山)
別名:なし
築城年:文明元年(1469年)
築城主:多賀高忠
廃城年:不明
主な城主:多賀氏、武田氏、三好氏、細川氏、足利氏
遺構:郭・堀切・竪堀・土塁・塹壕
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2020年11月1日(日)晴
駐車場:なし

♢歴史
如意岳城は、「応仁の乱」で東軍に属した多賀高忠によって築城されたと伝わっています。大文字山山頂一帯に位置し、志賀越と東海道とを眼下に望み、京と近江を結ぶ交通の要所を押さえる最大の要所であった。応仁の乱以降も陣塞化していたことがわかります。『二水記』の享禄3年(1530年)11月3日の記録や『惟房公記』の永禄元年(1558年)には細川高国、足利義輝などによって利用され、永禄4年(1561年)の地蔵山の戦いでは六角承禎が布陣して松永久秀と戦っている。元亀年間の織田氏と朝倉氏・浅井氏の戦いにおいても陣城として利用されたとされる。
遺構は、標高約466mの大文字山山頂を本丸とし西方の鞍部に二か所の空堀を備え、本丸には10段近くの腰部がめぐらされその外側は空堀と土塁により囲まれています。



■案内板

■しばらく登っていくと右手に橋がありここから大文字山へ

■千人塚

■この階段を登ると送り火の火床まであとちょっと。

■送り火の火床
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■送り火の火床
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■大文字焼き火床からの景観

■送り火火床

■城跡へはここからまだ登らなければなりません

■この道を進みます









■堀切



■横堀



■曲輪

■土塁







■主郭

■主郭

■登山道

■堀切





■主郭

■大文字山の木札

■主郭からの景観


♢如意岳城へのアクセス
銀閣寺(慈照寺)総門前を左折しみちなりに100mほど行くと右手の駐車場があり、そこから谷筋を登っていくと登山道があります。

三宅八幡城跡

所在地:京都市左京区上高野西明寺山・岩倉花園町
別名:なし
築城年:室町時代
築城主:佐竹氏?
廃城年:不明
主な城主:佐竹氏?
遺構:郭、土塁、堀切、竪堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2020年11月1日(日)晴
駐車場:なし

♢歴史
築城年や築城主など詳細は不明です。御蔭山城の支城か?


■神社鳥居


■三宅八幡宮社殿



■南削平地

■南削平地

■木々が倒れています

■ゴルフ場のネットが見えてきました

■ゴルフ場のネットが張られています
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■土塁
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■二郭


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■主郭
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■主郭
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■土橋

■縦堀
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■堀切
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■郭
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■郭
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■こちらに降りてきました
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♢三宅八幡城跡へのアクセス

御蔭山城跡

所在地:京都市左京区上高野東(御蔭神社)
別名:八瀬御蔭山城
築城年:不明
築城主:佐竹氏
廃城年:不明
主な城主:佐竹氏
遺構:郭、土塁、堀切、竪堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2020年11月1日(日)晴
駐車場:神社入り口に1台分のスペース

♢歴史
御蔭山城跡の築城年など詳細は不明ですが、高野川の左岸、御蔭山の中腹の標高230m付近に位置し、土豪佐竹氏の本城です。山の北斜面を大きくカットして造られた郭や曲輪が良好に残っています。
「信長公記」巻三には、元亀元年(1570年)九月二十五日「八瀬・大原口には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。」とあり、(高野蓮養坊とは佐竹蓮養坊のこと)これは、信長軍が、下坂本に陣取り、比叡山に陣取る朝倉・浅井の連合軍と対峙している時のことである。

■御蔭神社入り口


■御蔭神社由緒

■御蔭神社鳥居

■御蔭神社社殿 (城跡へは社殿向かって右側の道を行く)

■登っていくと途中左手に2連縦堀があるので、ここから登っていきます。

■郭

■ここでカメラのバッテリーが切れたのでとりあえずiPhone12 proで撮影しました。
■縦堀(下方から撮影)


■縦堀(上方から撮影)

■郭

■主郭

■主郭

■もう少し先に進みます

■郭跡(櫓台か)

■竪堀

■堀切
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■郭跡


♢御蔭山城跡へのアクセス

革島城跡

所在地:京都市西京区川島玉頭町他
別名:革嶋館、川島城
築城年:鎌倉時代
築城主:革島氏
廃城年:不明
主な城主:革嶋氏、鶏冠井(かいで)氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)
駐車場:なし

♢歴史
革島城は山陰道が京都を出て桂川を渡った平野部にあり、西岡諸土豪の居館の中ではもっとも北部に位置していた。当城の位置については、嘉歴元年(1326年)二月と記されている「革島庄条理坪々図」のほぼ中央に「御所カキ内」と記入されており、鎌倉時代の絵図中に図示されているというきわめて珍しい例である。革島氏は佐竹源氏の後裔で、鎌倉時代初期に本所近衛家から革島荘の下司職に補任され、革島氏を称した。戦国時代の革島氏は西岡中央部の土地を集積して地主的性格を有したが、永禄八年(1565年)石成友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出し、代わって当城には三好三人衆の与力の鶏冠井(かいで)氏が入部した。しかし、それから三年後の織田信長の上洛によって革島氏は再び当地に復帰し、細川藤孝との縁故から明智光秀の被官となったが、本能寺の変ののち連座して没落した。
元禄十五年(1702年)の屋敷図(『革島分書』)によれば、南北七十五間、東西三十間の規模の居館と推定される。集落にはいまなお灌漑用水を兼ねた水路がめぐらされている。『日本城郭体系11より転載』

■革島城の名が刻まれている公園






■川嶋村の氏神である三宮神社

■三宮神社社殿

■革島春日神社

■革島春日神社由緒



■近くの民家に飾られている出土品


♢革島城跡へのアクセス

堂ノ庭城跡

所在地:京都府京都市北区西賀茂城山
別名:長坂城
築城年:天文23年(1554年)
築城主:細川晴元
廃城年:不明
主な城主:細川氏、明智氏
遺構:曲輪、帯曲輪、石積、土塁、横堀(空堀)
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)
駐車場:登城口手前にスペースあり

♢歴史
城山は氷室別れの北北東約500メートルにあり、氷室神社を結ぶ狭隘道路の中間に位置する標高479.8mの山である。山頂付近は20-30m四方に平坦になっており、国土地理院の三等三角点の標石が設けられている。この直下に曲輪が配置され、高さ2-3mの段差のある石垣や土塁が所々に良好な状態で残る。ここに横堀や虎口を備えた堂ノ庭城(どうのにわじょう)と呼ばれる砦が設けられた。築城には諸説残り、1553年(天文22年)、船岡山城にいた足利義輝が三好長慶と交えた戦中に形勢を立て直すべく入城した。永禄五年(1562年)には、室町幕府の奉行人の伊勢貞孝が、ここに籠り幕府に叛旗を翻しました。この時、伊勢貞孝は敗死しています。永禄11年(1568年)に織田信長が上洛した後も北の守りとして機能したが、天正7年(1579年)の明智光秀による丹波平定後に廃城になった考えられます。

■登城口前にある配水施設


■登城口

■曲輪

■空堀

■土塁

■主郭(奥に土塁)

■主郭

■主郭(一段高い所は櫓台か?)

■曲輪



■空堀


♢堂ノ庭城跡へのアクセス
登城口

京都新城

所在地:京都府京都市上京区京都御苑2−番地
別名:太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷、新城、秀頼卿御城、京の城、豊臣氏第
北政所屋敷、高台院屋敷、三本木屋敷
築城年:慶長2年(1597年)
築城主:豊臣秀吉
廃城年:寛永4年(1627年)
主な城主:豊臣氏
遺構:石垣、堀(現在未公開)
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡(京都御所)
訪城日:2020年9月21日(月)
駐車場:清和院御門(御苑東側)、中立売御門(御苑西側)の2箇所の有料駐車場
料金等の詳細は(一財)国民公園協会京都御苑HPをご確認ください。

♢歴史
京都新城は慶長2年(1597)年、豊臣秀吉が最晩年の16世紀末に築いた城郭で、御所の南東に、東西400メートル、南北800メートルにわたって築かれたとされている。秀吉の死後は正室、高台院(北政所)の屋敷となり、高台院が寛永元年(1624)年に亡くなると徳川幕府が解体、17世紀の初め、後水尾天皇が上皇となられた際に同所に造営されました。
御殿は1854年に焼失したのを最後に再建されませんでしたが、庭園・茶室などが残っています。
(2020年5月 京都仙洞御所から京都新城の石垣と堀跡が発掘調査で発見されました。)

■京都御所




■御車寄



■仙洞御所内

■京都新城があったとされる仙洞御所


♢京都新城跡へのアクセス
仙洞御所参観は事前予約が必要です。

京都仙洞御所HP

船岡山城跡

所在地:京都府京都市北区紫野北舟岡町
別名:船崗山城、山名城
築城年:応仁元年(1467年)
築城主:大内政弘
廃城年:不明
主な城主:大内氏、山名氏、細川氏
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物:石碑、説明板(船岡山)
指定文化財:国指定史跡(船岡山)
訪城日:2020年9月21日(月)
駐車場:周辺の有料駐車場

♢歴史
船岡山城は、応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱の西軍の城として船岡山に築造された。備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが籠り翌年、東軍によって落城し、その後は東西両軍とも利用しなかったため、廃城となった。臨戦用の陣城と推定されており、恒久的な城郭施設の存在は不明である。遺構としては山腹に横堀が掘られており、堀の外側土塁が積みあがっている。また山頂部にはかなり広い削平面が確認でき、典型的な中世の山城であった。永正8年(1511年)には、細川政賢と大内義興の間で繰り広げられた有名な船岡山合戦が行われた。
『日本城郭大系(第11巻、京都・滋賀・福井)』(1980、新人物往来社)参照

■船岡山山頂(主郭?)

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■船岡山山頂の景観
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■主郭北斜面には東西に横堀が塹壕状態に掘られている(未確認)
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■大文字(山頂は如意ヶ嶽城跡)
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■織田信長公を祀った建勲神社
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■信長公が舞った『敦盛』の一説の石板
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■建勲神社
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■永正の船岡山合戦
永正8年、足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦い

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■船岡山合戦石碑
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♢船岡山城跡へのアクセス

御土居

所在地:京都市内全域
別名:御土居堀、京廻堤、新堤、洛中惣構え
築城年:天正19年(1591年)
築城主:豊臣秀吉
遺構:土塁
再建造物:石碑、案内板
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし
御土居跡マップ 京都市埋蔵文化財研究所

♢歴史
御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591年)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。
台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。
江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。
昭和5年(1930年)、市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。
また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。

■①紫竹御土居

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■御土居の北東角の屈曲部分にあたります。

■堀川通に分断されていますが、通りの東側と西側に土塁の土盛りを確認することができます。(西側未撮影)

■御土居石碑

■②大宮御土居(中央に堀跡)

■保存状態が最も良く、約250mにわたって御土居が現存しています。
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■金網で囲われており外側からしか見学できません
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■堀跡

■③鷹峯御土居
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■御土居前にある和菓子店光悦堂は御土居餅が有名だそうです。ここでカギを借りて中に入ることが出来ます
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■御土居全周のうち、北西隅にあたる地点です。

■御土居案内板

■④平野鳥居前町御土居

■御土居から出土した石仏

■御土居

■御土居(北野天満宮)
訪問時工事中で閉鎖していました。



♢御土居へのアクセス
史跡指定9か所
①京都市北区紫竹上堀川町
②京都市北区大宮土居町
③京都市北区鷹峯旧土居町2
京都市北区鷹峯旧土居町43(御土居史跡公園)未訪問
京都市北区紫野上柏野町54−31(未訪問)
④京都市北区平野鳥居前町24−16
⑤京都府京都市上京区馬喰町(北野天満宮)
中京区西ノ京原町 (御土居上に市五郎神社社殿)未訪問
上京区北之辺町 (廬山寺)未訪問
これら指定地以外にも、北野中学校校庭(中京区西ノ京中保町)や大宮交通公園(北区大宮西脇台)に御土居が残っている。

聚楽第

所在地:京都市内
別名:聚楽亭、聚楽城
築城年:1586年(天正14年)
築城主:豊臣秀吉
廃城年:1595年(文禄4年)
主な城主:豊臣秀次
遺構:移築門(大徳寺山門)異論あり
再建造物:石碑,案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし
聚楽第 - 京都市埋蔵文化財研究所

♢歴史
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成したために、妙顕寺城より移った。
九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ場所に2度も行幸が行われたのは稀有なことである。文禄3年ごろには北の丸が秀次により増築された。しかし、1595年(文禄4年)7月に秀次は、秀吉によって高野山に追放させられ、切腹した。そして、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるため、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。のち、御所に参内するための利便上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。

■①聚楽第址(聚楽第本丸西堀跡)


■聚楽第址の石碑

■聚楽第址案内板

■②聚楽第址の石碑(聚楽第本丸東堀跡)

■聚楽第址の石碑

■③マンション建築工事の際に、東西に延びる底石列が二列検出された。

■この石列は京都図屏風などから北之丸北堀南側の石垣のものと考えられる

■説明板

■北之丸北堀南側石垣が検出

■④聚楽第南外堀跡(松林寺)
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■説明板
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♢聚楽第へのアクセス
①京都府京都市上京区新桝屋町425
②京都府京都市上京区新元町222 大宮通
③京都府京都市上京区西辰巳町
④京都府京都市上京区智恵光院通出水下る分銅町575

二條陣屋

所在地:京都市中京区大宮通御池下ル三坊大宮町137
別名:なし
築城年:寛文年間(1661~1673年)
築城主:萬屋平右衛門
廃城年:不明
主な城主:小川氏
遺構:家屋
再建造物:木碑,案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし
事前に予約が必要です。詳しくは二條陣屋公式HPをご覧ください

♢歴史
古文書の残すところによれば、寛政3年(1791年)以後、商人「萬屋平右衛門」の屋敷であって、当地において米・両替商を営むとあります。萬屋平右衛門の萬屋は屋号であって、商人が苗字を名乗ることは特別の場合を除き、許されていません。屋敷は二条城の南側、川西(堀川の西側)にあって、京都所司代屋敷、東西の京都町奉行、六角獄舎など幕府の司法関係の建物が集まる地区にありました。京都所司代や京都町奉行は、一定様式の訴状を要求します。公事師はそれを代書したり、罪人への面会を手続きしたりすることで、手数料収入を得ることができました。
また、上洛してすぐに裁判が始まるとは限らず、判決が出るまでにも時間がかかります。裁判待ちの大名は公事師の屋敷に逗留するようになり、公事宿と呼ばれるようになりました。
萬屋平右衛門の公事宿は、その地の利をさらに活かし、藩邸を持たない地方の大名に対し、上洛宿としても屋敷を提供するようになり、後には商人でありながら小川姓を名乗ることを許され、西国大名の御用達ごようたし(おかかえの商人)となります。
現存する屋敷は、過去の火災、改築等により、創建当時の店構えは見ることができませんが、各室の趣向を凝らした意匠と客の安全を図るための巧妙な防衛建築は、創建当時の造作を引き継ぐものと思われます。

♢小川家について
小川家の先祖は、墓に彫られた墓誌(略歴)により、伊予国今治(愛媛県) の領主「小川土佐守祐忠」と言われます。小川祐忠は豊臣秀吉の家臣で、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、当初西軍に味方していたものの小早川秀秋に呼応し、東軍に寝返ります。東軍に寝返ったことで、合戦直後はその所領を保持しますが、徳川家康は祐忠の裏切りを黙認せず、結局、小川家の所領を没収します。祐忠は合戦の数年後に没していますが、その子千橘せんきつが改名し、当地において商人「萬屋平右衛門」として身を立て直したというものです。しかし、千橘が本当に祐忠の子であったのか信憑性に欠けます。
この他に、先祖は大和国吉野郡小川郷(奈良県吉野郡東吉野村)の豪族小川氏で、千橘はその末裔との言い伝えがあります。
当家には「春日の間」という奈良の故郷を偲んで作られた部屋があり、「木薬屋平右衛門」と名乗った時の金看板が現存します。吉野郡は薬草の産地として有名で、当地の出身であるからこそ、薬種商も営むことができたと考えられます。また、小川郷は、鎌倉、室町時代に奈良の興福寺に属した寺領荘園(国の租税免除のために寺院に寄進した荘園)であり、小川氏は荘園の荘官(荘園の管理者)であったと推定されます。千橘は、荘官に必要な公事訴訟、出納の知識を持ち合わせており、公事宿や米・両替商を営むことができたと考えられ、当屋敷の創建が京都に町奉行ができた寛文8年(1668年)と同時期であることからも、後者の言い伝えは信憑性が高いと言えます。『より二条陣屋の公式サイトより抜粋』


■二條陣屋

■二條陣屋案内板

■二條陣屋


♢二條陣屋へのアクセス

二條古城跡

所在地:京都府京都市上京区烏丸出水町ー新町丸太町
別名:なし
築城年:永禄12年(1569年)
築城主:織田信長
廃城年:天正元年(1573年)
主な城主:足利氏
遺構:石垣(復元移築)
①二条城西橋付近の休憩所付近
②京都御苑の椹木口横
再建造物:石碑,案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし

♢歴史
足利義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。


■二条古城址石碑



■二条古城案内板


♢二条古城へのアクセス

二条殿御池城跡

所在地:京都府京都市中京区二条殿町・
別名:二条御新造
築城年:天正四年(1576年)
築城主:織田信長
廃城年:天正十年(1582年)
主な城主:織田氏
遺構:なし
再建造物:石碑,案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし

♢歴史
二条殿町あたり一帯の平安時代前の利用についてはよくわかっていないが、平安時代中期には陽明門院禎子内親王の御所となったこの御所は、承暦四年(1080年)に焼失する。その後、藤原家成、藤原範光邸を経て、鎌倉時代には後鳥羽上皇の御所となり、承元三年(1209年)に上皇が渡御している。この御所は、押小路殿、三条坊門烏丸殿、押小路烏丸泉殿などと呼ばれた。承久の乱ののち、陰明門院藤原麗子の邸宅となり、貞応元年(1222年)に焼失。正嘉元年(1257年)には後嵯峨天皇が御所を造営した。弘長二年(1262年)には、藤原成子の邸宅となる。13 世紀末から 14 世紀初め頃に二条摂関家に譲られたようで、それ以後、二条殿と呼ばれて代々二条家の邸宅として室町時代まで存続する。二条殿は「龍躍池」と呼ばれた泉と池を中心とする庭園で名を馳せ、洛中洛外図にもその様子が描かれている。二条殿は文明九年(1477年)の放火により焼失。文明十八年(1486年)には再建されるが、二条家の零落により、二条殿も荒廃していった。その後、二条殿の庭園を気に入った織田信長が京都における御座所にこの地を選び、二条家を報恩寺に移徙させて、天正四年(1576年)から二条御新造(二条殿御池城)を造営した。信長は天正七年(1579年)にこの二条御新造を誠仁親王に進上し、このことから御所の上御所に対して下御所あるいは二条新御所と呼ばれるようになる。天正十年(1582年)の本能寺の変の際に信長の長子信忠はこの下御所で討ち死にし、下御所は焼失する。『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告より抜粋』


■烏丸御池駅一番出口にある石碑

■烏丸御池・平安京石碑案内板

■マンガミュージアム裏手にある二条殿跡石標(誠仁親王御所)



■二条殿御池跡(二条良基邸)


♢二条殿御池城跡へのアクセス
①京都市中京区仲保利町(烏丸御池1番出口)
②京都市中京区二条殿町(両替町通り)
③京都市中京区御池室町西北角(室町通り)

なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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○相互リンク募集中です。リンクはフリーです。
○当ブログの掲載内容につきまして参考資料などを見て掲載はしていますが、情報が古かったり、間違っていたりするかもしれません。ご容赦願います。
○掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。
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