なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

美方郡

清富陣屋跡

所在地:兵庫県美方郡新温泉町清富143
別名:なし
築城年:寛永4年(1627年)
築城主:宮城主膳正豊嗣
廃城年:寛永20年(1643年)
主な城主:宮城氏
遺構:なし
再建造物:説明板 碑
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:なし

♢歴史
清富陣屋は、関ケ原の役(1600)後、浜坂周辺を支配していた宮城氏が、寛永4年(1627年)に二方郡一円を支配するようになり、陣屋を芦屋から清富(寛永20年)に移したことに始まります。宮城氏は江戸幕府に旗本として仕え、検地や近世村落の自立を図り、また清富村の町立てや岸田川の付け替え工事などを行いました。特に奉楞巌寺古文書の保護をした功績は大きいものがあります。宮城氏は江戸に住み、近江に大津屋敷があり、清富陣屋は直務と年貢収納の役所でした。
3代目宮城主膳が寛永20年(1643年)に逝去し、その跡を継ぐものがなく宮城家は断絶しました。所領は幕府に没収され天領となり、陣屋は廃止されました。現在、清富に「御屋敷」「殿町」「町」などの小字名や、区画された道路・石垣などの史跡があり、往時の面影を偲ぶことが出来ます。
・建立年月日 昭和57年12月
・碑文 碑面 清富陣屋跡 由来(内容省略)
・揮毫 宇野雪村
・建立者 東京 田中吉太郎

■清富陣屋跡記念碑









■相応峰寺




♢清富陣屋跡へのアクセス

芦屋陣屋跡

所在地:兵庫県美方郡新温泉町芦屋殿町
別名:なし
築城年:慶長10年(1605年)
築城主:宮城右京進頼久
廃城年: 寛永4年(1627年)
主な城主:宮城氏
遺構:なし
再建造物:説明板 碑
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:なし

♢歴史
慶長5年(1600年)、義父・豊盛が関ヶ原の戦いで、西軍に属し大坂城平野橋を警護したために戦後に所領を半減されたが、改易を免れ、以後は徳川家に仕える。慶長10年(1605年)、実兄・山崎家盛より但馬国二方郡の大部分である6014石を分知されて分割支配とされたので、上級旗本として芦屋に陣屋を構えた。慶長14年(1609年)、義父に先だって死去。享年40。嫡男の十二郎(豊嗣)が5歳と幼かったため、豊盛が後見となって、駿府で家康に拝謁して許しを得て、頼久の遺領を継いだ。



■塩冶周防守の碑説明板

■塩冶周防守の碑


♢芦屋陣屋跡へのアクセス

芦屋城跡

所在地:兵庫県美方郡新温泉町芦屋城山(城山園地)
別名:諸寄城、亀が城、阿勢井城
築城年:南北朝時代末期
築城主:塩冶氏
廃城年: 1605年(慶長10年)
主な城主:塩冶周防守、宮部善祥坊継潤、宮城右京進頼久
遺構:曲輪、堀切
再建造物:説明板
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:城山園地駐車場

♢歴史
屋城は戦国時代の武将塩冶周防守が居城にしていた城で、周囲を断崖絶壁に囲まれた地形は天然の要害となっており、海上交通を押さえるために築かれた城である。芦屋城は、天正八年(1580年)羽柴秀吉が但馬を攻めたとき落城した。城主塩冶周防守高清は、鳥取城主吉川経家を頼り、翌年羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、再び鳥取の雁金城と丸山城で戦ったがいずれも落城し、自決した。
昭和59年発掘調査が本丸部分について行われ、建物跡や青磁・白磁・天目茶碗、古銭・硯などが多数出土した。 
『芦屋城跡案内板』より

自決したのちは、鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり、「関ケ原の戦い」後に山崎家盛の弟である宮城右京進頼久が城主となりましたが、山麓に陣屋を築いて廃城となりました。

■諸寄港

■説明板

■登城口

■芦屋城説明板

■二郭

■主郭西側下段

■井戸跡

■土塁



■土塁

■主郭東側

■主郭

■主郭

■主郭






♢芦屋城跡へのアクセス

温泉城跡(ゆのしろ)

所在地:兵庫県美方郡新温泉町湯
別名:白毫山(びゃくごうさん)城
築城年:南北朝時代
築城主:奈良氏
廃城年: 不明
主な城主:奈良氏
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
再建造物:説明板
指定文化財:町指定史跡(温泉城)
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:路肩待避所

【歴史】
南北朝時代以来、奈良氏の城とされる。奈良左近は南朝方に与し、延文元年(1356年)に北朝方の今川義貞に温泉城を攻撃されたという。

元亀2年(1571年)8月、毛利方の鳥取城主・武田高信が尼子方の芦屋城主・塩冶肥前守を攻めた際、奈良氏も塩冶方で参戦している。

天正9年(1581年)の羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、温泉城は落城したといわれる。しかし畝状竪堀や竪堀が卓越した縄張に戦国時代末期の改修がうかがえ、羽柴秀長の但馬平定後の小代一揆で一揆軍の拠点として使われた可能性も指摘されている。


■ここを直進

■途中の待避所に駐車

■温泉城跡案内板
湯集落南側、岸田川の支流春来川と稲負谷川に挟まれた白毫山に所在し、城域は東西400メートル、南北200メートルある。標高338メートルの高所に位置する主郭(東西41メートル、南北25メートル)を中心として三方向に延びる尾根に階段状の堀切・竪堀で防御している。南北朝期に起源を持つ城ではあるが、横堀や畝条竪堀を含む30本を越える竪堀の存在から、戦国時代末期に改修された城である。
温泉城の詳細は定かではないが、延文元年(1356)に北朝方である伊達真信に攻め落とされている。その後は奈良氏が居城したという。

■登城口

■ここから3条の堀切があります



■堀切



■堀切

■堀切

■曲輪4

■曲輪4の竪堀

■曲輪3

■曲輪3の竪堀

■曲輪2

■曲輪2の竪堀

■主郭

■主郭

■主郭

■主郭西側下(残念ながら未訪)

■主郭北側下(当方未訪ですが、下りると横堀を伴う5本の放射状の竪堀群があるそうです)


♢温泉城跡へのアクセス

村岡藩陣屋跡

所在地:兵庫県美方郡香美町(御殿山公園)
別名:なし
築城年:寛永19年(1642年)
築城主:山名義方
廃城年: 明治4年(1871年)
主な城主:山名氏
遺構:石垣
再建造物:奥方部屋
指定文化財:なし
訪城日:2021年9月24日(金)晴
駐車場:御殿山公園

♢歴史
因幡の国守護であった山名豊国が、慶長6年(1601年)に七美郡五郷6、700百石を徳川家康から拝領して、村岡山名の初代となりました。当初は兎束村に陣屋を仮設し、元和元年(1615年)福岡と改称した。その後3代山名矩豊は寛永19年(1642年)陣屋を黒野村に移し村岡と改称した。8代山名義方は、文化3年(1806年)陣屋を尾白山に移し、中腹に陣屋を築き、大手門、中門、長屋、鎮守社,煙硝蔵、練兵場を設けた。11代山名義済は慶応4年(1868年)太政官から新田4千300石の加増を認められ、1万1千石で村岡藩を立藩し、12代山名義路の代に廃藩となった。
















■桜山御廟説明板

■桜山御廟

■奥方部屋庭園

■奥方部屋

■奥方部屋説明板

■奥方部屋

■奥方部屋からの風景

■御殿山公園案内図 野外ステージ付近に石垣があるそうです




♢村岡藩陣屋跡へのアクセス
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