なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

青森県

八戸城跡

所在地:青森県八戸市内丸(三八城公園)
別名:なし
築城年:寛永4年 (1627年)
築城主:南部利直
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:南部氏
遺構:移築門(角御殿表門)、土塁
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:県重宝(八戸城角御殿表門)
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:なし

【歴史】
八戸城は南部師行が根城を築いた間もない時期に根城南部氏二代政長の三男・信助が根城の支城として築いた「中館」が始まりで、代々中館氏が居館していたが、築城時期・館の位置・規模については不明である。寛永四年(1627年)に根城南部氏が遠野に国替えとなり、中館氏もこれに従い移りました。以後、三戸南部氏の直轄地となった。そして南部利直の手で八戸城の改修や城下町の整備が行われた。寛文4年(1664年)盛岡藩2代藩主・南部重直が没したため八戸藩が分立されると、初代藩主である直好は諱を直房と改め、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで、館を修築して八戸城として使い、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。
城郭は本丸と二の丸から構成される。明治4年(1871年) 廃藩置県により廃城、現在は跡地に三八城神社、三八城公園がある。

本丸の規模は東西約150メートル・南北200メートルで、現在の三八城神社付近に御殿があった。御殿は藩の役所と藩主の執務場所、居間等の奥部分で構成され、文政12年(1892年)に新御殿が建築された時に奥部分が大きく拡張された。御殿の北側には御花畑、米蔵があり、南側には書院庭、武器の土蔵があった。天守や隅櫓は計画のみで明治維新を迎えるまで建設されることは無かった。


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◆八戸城跡説明板
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◆八戸城跡角御殿表門
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◆このあたりは二の丸跡
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◆ここあたりが二の丸跡
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◆御殿があった三八城神社
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◆本丸跡石碑
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◆南部直房公像
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♢八戸城跡へのアクセス


京兆館跡

所在地:青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下34−2
別名:なし
築城年:不明
築城主:岩館右京義矩
廃城年:不明
主な城主:岩館右京
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:なし

※金田一城跡へ向かう途中に説明板に気付き事前情報もなかったが寄ってみた。

【歴史】
『城下町への入口である沼尻惣門を警備した館跡。広さは東西約80m、南北約150m。西は熊原川に臨み、北方及び浄法寺へ通ずる古い街道が通っており交通の要衝であった。館主の岩館右京は、盛岡藩主南部利直の家来で、寛永9年(1632)利直が没した際に殉死した。京兆とは右京大夫の唐名である。平成18年三戸町教育委員会』








京兆館跡へのアクセス

三戸城跡

所在地:青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下34−2
別名:留ヶ崎城
築城年:天文8年(1539年)
築城主:南部晴政
廃城年:貞享年間(1684年~88年)
主な城主:三戸南部氏
遺構:曲輪
再建造物:表門、搦手門、代官所門(三戸町指定有形文化財)
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:三戸城跡公園駐車場

【歴史】
三戸城跡は、三戸町の市街地ほぼ中央に位置し、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上にある連郭式山城である。両河川を天然の水堀とし、周囲から孤立した台地で、低地との比高差は約90メートルを測り、規模は東北から西南方向に約1.5キロメートル、北西から南東方向に約400メートルである。伝承によると領主南部晴政の代の天文8年(1539年)に、聖寿寺館(本三戸城)が家臣の放火により焼失、その後この地に築いたものと伝えられる(下斗米家譜)。同時代において、三戸南部氏が勢力を拡大し続け、肥大化した組織の統制をはかる根城が必要となったため、当城へ居を移したとする見方もある。晴政・晴継が相次いで没すると、天正10年(1582年)田子信直(南部信直)が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城、信直の代へと変わる。天正18年(1590年)に小田原征伐へ参陣した信直は豊臣秀吉所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻子は、南部氏の居城下に集合を厳命されていることから、三戸城が南部氏の居城となったと考えられる。天正19年(1591年)九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請される。その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。
寛永10年(1634年)に盛岡城が居城と定められて、三戸城は御古城と呼ばれ、城代が預かる形となったが、石垣の補修や御掃除奉行が設置されるなど、藩主から管理を疎かにしないように働きかけがなされている。貞享年間(1684年~88年)、城代が廃されて三戸代官の支配となった。



◆石垣

◆駐車場が本丸跡

◆説明版

◆本丸跡

◆三層櫓跡
近世の絵図には、本丸北側の一角に築かれた石垣の上部にシャチを屋根に飾った山荘の櫓が描かれています。これは、「御三層」もしくは「御二階」と呼ばれた建物で、現在公園内にある「三戸城温故館」のモデルとなっています。

◆上段御馬屋敷跡
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◆石垣
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◆鍛冶屋御門跡

◆鍛冶屋敷跡



◆奥瀬与七郎邸跡
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◆御鷹部屋跡

◆説明版

◆大御門跡

◆大御門跡
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◆大門跡説明版

◆模擬天守(三戸城温故館)
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◆欅御門跡

◆目時筑前屋敷跡
目時筑前は、三戸城から南へ3km離れたところに位置する目時館の城主です。

◆北信愛屋敷跡
北氏は南部家にとって最も信任の厚かった一族でした。特に信愛は、南部家の跡取り問題では信直を擁立し一門をまとめました。また、豊臣政権と南部家の親交を結ぶことに成功するなど近世南部家の基礎を築いた立役者です。のちに花巻城代として和賀・稗貫一揆の平定で功績を挙げますが、晩年は剃髪、出家して松斎と号しました。
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◆桜庭安房屋敷跡
桜庭安房直綱は、佐々木与三郎と名乗りましたが、天正17年(1589年)元服のとき南部信直から直の一文字と国定の脇差を賜りました。直綱は、赤石(南部町)館主として二千石を領し、天正20年(1590年)諸城破却の頃から三戸城内に居住したとされます。

◆鳩御門跡

◆武者溜跡

◆綱御門(復元)



◆南部彦八郎利康屋敷跡

◆南部彦九郎政直屋敷跡

◆空堀跡

◆物見櫓跡


♢三戸城跡へのアクセス

聖寿寺館跡

所在地:青森県三戸郡南部町小向字聖寿寺
別名:本三戸城
築城年:14世紀末頃
築城主:南部信長?
廃城年:不明
主な城主:三戸南部氏
遺構:曲輪、堀
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:あり

【歴史】
聖寿寺館はもとは三戸城と呼ばれていたが、南部家の菩提寺である聖寿寺がそばにあり、聖寿寺館と呼ばれるようになった。三戸南部氏11代信長から24代晴政までのおよそ200年間居城としたが、天文8年(1539年)6月、家臣赤沼備中の放火により炎上焼失。「祐清私記」によると、南部晴政が家臣赤沼備中の妻女を城中に引き入れたため、備中は晴政を怨んでおり、知行についても家老奥瀬安芸をも恨んでいた等で放火し、奥瀬安芸を斬って逃げたが、下斗米将家は、これを追いかけ、諏訪の平にて赤沼備中を討ち留めたとある。その後、三戸城(留ヶ崎城)築城とともに「本三戸城」と呼ばれようになった。現在城址はりんご園になっており、周辺に堀跡が残っています。2004年(平成16年)には南部氏菩提寺のある「三光寺地区」などとともに国の史跡に指定されました。また北側にある正寿寺には27代・南部利直が、四男・利康の死をいたんで創建し、国の重要文化財に指定されている南部利康霊屋があります。

◆史跡聖寿寺館跡案内所







◆大型竪穴建物跡(倉庫・工房)

◆説明版

◆中型竪穴建物跡(鍛冶工房)
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◆小型竪穴建物跡(倉庫)














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◆大型井戸跡









◆南部利康霊屋

◆八木橋藤十郎墓
八木橋藤十郎武茂は、南部利康死去の翌月の忌日、寛永8年(1631年)12月21日に殉死した。武茂は、孫左衛門茂吉の長男でまだ部屋住みであった。行年26歳。法号忠岳宗順禅定門。
2つの石碑が立っているが、自然石の方が当初に建てられた墓碑であり、切石の方は武茂の末弟にあたる茂右衛門茂喬が、寛延4年(1751年)聖寿寺13世大頎宗碩の撰文によって建碑した。27代藩主利直公は、藤十郎武茂の忠死を賞されて父の茂吉に玄米30石を加恩し、弟2人に50石ずつを与え、両子の病死により茂吉に対して旧知行と合せて200石を与え、子孫に伝えさせた。
『南部町教育委員会』
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◆法泉寺山門

◆説明版


♢聖寿寺館跡へのアクセス

平良ヶ崎館跡

所在地:青森県三戸郡南部町沖田面字古舘13(旧南部中学校)
別名:篦ヶ崎館
築城年:建久3年(1192年)
築城主:南部三郎光行
廃城年:不明
主な城主:南部氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:南部町史跡
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:なし

【歴史】
平良ヶ崎城は中世の平城で糠部(三戸)五ヶ城の一つで、三戸城の北4キロメートルに位置する、南部町沖田面字南古館に所在した。かっては南部中学校敷地であったが現在は移転して更地となっている。この地は高山峠を越え、浅水を経て五戸方向に通じる道と八戸方向に通じる道との分岐点である。高山峠から南方に延びる丘陵端を空堀で切断している。南部氏が建久2年(1191年)の糠部入部の際、三戸相内の観音堂で年を越えたが手狭な相内館に長くとどまらず、翌、建久3年(1192年)、初代南部三郎光行により築城し移って政庁が置かれた。「南部町史」によると、旧南部中学校敷地部分は「南古館」、道路(堀跡)を挟んだ一帯が「北古館」とされる。




※立ち入り禁止みたいだったので中へは入りませんでした。

♢平良ヶ崎館跡へのアクセス

五戸館跡

所在地:青森県三戸郡五戸町舘1−1(歴史みらいパーク)
別名:木村館
築城年:慶長年間(1596年~1614年)
築城主:木村秀勝
廃城年:不明
主な城主:木村氏
遺構:なし
再建造物:五戸代官所跡
指定文化財:なし
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:五戸町図書館

【歴史】
五戸館は、慶長年間(1596年~1614年)子の秀勝が150石を領し、五戸館(木村館)を築き移り住みました。秀勝は、南部信直に、見いだされ五戸の新田開発・町造りに尽力しました。その後、代々五戸館に居館し明治維新を迎えています。

◆五戸館(木村館)跡説明版





◆五戸代官所の門

◆五戸代官所(復元)
五戸代官所の設置年代は寛永12年(1635年)頃で、明治2(1872年)年に廃止された。
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◆覚
『五戸通には、三戸郡の13か村と北郡の15か村が編入されており、合わせて28か村が五戸代官所の管轄に入っていたのである。幕末における五戸代官所の石高は14,170石で、藩領内で2番目の石高であった。この代官所には、2名の代官をはじめ、下役、帳付、御野馬別当、牛馬役、御蔵奉行など約13名の役人が交代しながら勤めていたのであり、そのほかに多くの下働きの者たちもいたとすると、相当数の人々が出入りしていたことが推察されるのである。文久年間(1861~63)に再建された五戸代官所の建物は、明治2年(1869)に「奉行所」となり、明治5年(1872)には「青森県民事堂五戸支庁舎」として使われている。この「五戸支庁舎」の一部を「五戸小学校」に貸して欲しいという県庁土木係に宛てた伺書に添付した図面が、「五戸代官所の平面図」として、一般に知られているものである。しかしそれは、建物の外郭線のみのものであり、内部の間取りについてはいっさいが不明であった。わずかに、便所が2ヵ所にあり、縁側がある、ということがその書付けによって読み取ることができたのであった。南部藩の代官所として比較できたのは、「花輪御代官所絵図面」と「毛馬内通御役屋御本陣絵図面」であり、近くの八戸藩のものとして「軽米御代官所」を取り上げることができた。また現在、北上市立博物館の「みちのく民俗村」に復原されている旧仙台藩「寺坂番所」の平面図であった。いずれの平面図をみてもいえることは、「代官所」という建物は大きくてりっぱなものでは無かった。そのへんの「大庄屋の屋敷」よりも、どちらかといえば劣るような建築が「代官所」として使われていたのであった。式台の「玄関」から入ってゆく「玄関の間」から「本座敷」という空間は、「代官所」においてもめったに使用しない空間であり、正月の儀式や盛岡からの客人のときなどに用いられるのであった。それにたいして「中之口」から「御用之間」へと続く空間は、常に使用されるところであり、代官たちもこの辺りにいて、仕事をしていたもののようである。そしてこの空間は「台所」から「庭」「水屋」へと通じているところでもあり、なにかと普段の生活が支えられているように造っている。資料の面では乏しいものではあったが、町民の方々の「代官所復元」にかける意気込みに感動させられて仕上げたものである。当時の代官たちの生活でも偲びながら、見学していただきたい。八戸工業大学教授高島成侑』

◆斗南藩の藩庁跡説明版
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♢五戸館跡へのアクセス

古館跡

所在地:青森県三戸郡五戸町舘5−14
別名:兎内館
築城年:永正年間(1504年〜1521年)
築城主:木村秀清
廃城年:不明
主な城主:木村氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:五戸町役場

【歴史】
館の由来や戦歴などは明らかでないが、永正年間(1504年〜1521年)に15代木村秀清の時に五戸に定着し築城したと思われます。また、慶長年間(1596年~1614年)には、子の秀勝は150石を領し、五戸館(木村館)を築き移り住みました。その頃に古館(兎内館)は廃城したと思われます。秀勝は、南部信直に、見いだされ五戸の新田開発・町造りに尽力しました。その後、代々五戸館に居館し明治維新を迎えています。古館は、単郭で自然の地形を利用し東西は懸谷、北は絶壁、南北は掘割をめぐらしていた。現在は、館の跡地に五戸町役場庁舎が建っており遺構らしきものはありません。
「日本城郭大系2より一部抜粋」

◆古館跡

◆説明版



♢古館へのアクセス(五戸役場)

根城跡

所在地:青森県八戸市根城
別名:柏葉城
築城年:建武元年(1334年)
築城主:南部師行
廃城年:寛永4年(1627年)
主な城主:根城南部氏
遺構:土塁、堀、井戸
再建造物:主殿、中馬屋、工房、鍛冶工房、板倉、納屋、東門
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月7日(日)晴
駐車場:根城跡駐車場
日本100名城:No5
スタンプ設置場所:八戸市博物館
※※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

根城HP


【歴史】
1333年(元弘3年、正慶2年) 南朝方に属する武将・北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向した。この時、甲斐国波木井の地頭職であった南部師行も供奉し、国代として任じられた。1334年(建武元年) 師行は、糠部郡八森に城を構えた。師行はここを、南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けたといわれる。師行は大光寺合戦などで戦功を立て津軽地方にも勢力を伸長した。1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年) 南部師行は北畠顕家とともに足利尊氏討伐に遠征した。師行は和泉国の地で北朝方の高師直との戦いで顕家と共に戦死した。師行の死後、弟の政長が跡を継いだ。1627年(寛永4年) 八戸氏22代・直義は利直により遠野城(岩手県遠野市)に移封となり根城は廃城となった。政長は室町幕府から再三の降伏勧告を受けたが従わず南朝への忠誠を守り続けた。しかし、南朝方が次第に劣勢となると、京から遠く離れた奥州北部の南部氏の勢力も次第に弱体化していった。1393年(明徳4年) 南部氏8代の八戸政光は本領の甲斐から根城に移って南部氏の再興を図った。この系統は八戸氏とも呼ばれている。その後も周囲での小競り合いが絶えず不安定な時代が続いた。そして、同族である三戸南部氏が次第に有力になる。1627年(寛永4年) 八戸氏22代・直義は遠野城に移封となり根城は廃城となった。


Z5V_1742

◆旧八戸城東門
この門は元は八戸城東門で、安政6年(1857年)に大風のため倒れ家臣の木幡氏の門として建て替えられた。伝承によれば、もともと根城にあった門を八戸城に移したといわれている。

◆堀跡

◆堀跡

◆薬草園

◆説明版

◆東善寺跡

◆東善寺跡

◆通路跡





◆堀跡

◆堀跡

◆説明版

◆中館跡









◆北門

◆東門

◆本丸跡案内板
Z5V_1770

◆納屋



◆主殿



◆井戸跡

◆上馬屋



◆中馬屋







◆井戸跡

◆下馬屋跡

◆物見

◆一葉一字供養塔

◆番所

◆祭壇跡?

◆西門

◆工房





◆常御殿

◆野鍛冶場



◆鍛冶工房





◆井戸跡

◆奥御殿

◆板蔵





◆納屋




♢根城跡へのアクセス

七戸城跡

所在地:青森県上北郡七戸町城ノ後
別名:柏葉城
築城年:南北朝時代(14世紀後半とも)
築城主: 南部政長(南部政光とも)
廃城年: 1873年(明治6年)
主な城主:南部氏、七戸氏
遺構:曲輪、堀
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月7日(日)晴
駐車場:七戸城跡駐車場

【歴史】
七戸城は、七戸川支流の作田川左岸に位置し、標高40メートルの丘陵に置かれた。この城の築城については明らかではありませんが、古くは平安時代末期に現地の豪族七戸太郎三郎朝清という説、次いで、建武元年(1334年)北畠顕家の国宜にみえる工藤右近将監である。この工藤氏は北条方であったため、建武の中興とともに没収され一旦は伊達行朝に与えられたが結城朝祐へ移され、翌建武2年(1334年)鎌倉攻めで功を立てた南部政長に与えられ、以降戦国時代末期まで子孫によって治められた。よって、南部政長が七戸に入部した時に、改めて大規模な城館構築が行われたというのが、七戸城の築城とされている。康正2年(1456年)9月に蠣崎蔵人信純の乱により落城しているが、12月には七戸城は奪還され政慶の手に戻っている。また、1483年(文明15年)には、南部彦四郎の乱が起こり七戸城は落城するも、彦四郎はすぐに捕らえられ獄死したとある。天正19年(1591年)九戸城主九戸政実が宗家三戸南部信直に対し謀叛を起こした九戸の乱で七戸城主七戸家国は、九戸方に加担。南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請し、七戸城は猛攻を受け落城し廃城となります。翌20年(1592年)「諸城破却書上」に「糠部郡之内 七戸 平城 破 信直抱 代官 横沢 左近」とあり、城は破却されたが、津軽に対する配慮から闕所地の七戸領は浅水城主南部信義の三男南部(南)直勝に与えられ、後に七戸氏の名跡を継がせ2300石を領知し家老職を世襲した。その後、明治2年(1869年)に七戸藩が創設され、七代南部信民が七戸知藩事に任じられ、藩庁がここに置かれた。
明治6年(1873年)に廃城と決まった。「日本城郭大系2から一部引用」





◆本丸(代官所跡)

◆本丸(代官所跡)

◆二の丸跡

◆二の丸跡

◆二の丸跡



◆姫塚

◆姫塚説明版

◆貝ノ口跡

◆復元された東門

◆東門説明版

◆北西外郭

◆西外郭

◆角館跡

◆北館跡

◆北館跡

◆北館復元模型

◆水堀

◆西館跡
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◆本丸跡に建つ七戸神明宮

◆七戸神明宮由緒

◆七戸城大手虎口

◆宝泉館跡






♢七戸城跡へのアクセス

種里城跡

所在地:青森県西津軽郡鯵ヶ沢町種里町
別名:山上城
築城年:延徳3年(1491年)
築城主: 大浦(南部)光信
廃城年: 元和元年(1615年)
主な城主:大浦(南部)光信
遺構:曲輪
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月6日(土)晴
駐車場:種里城跡駐車場

種里城HP



【歴史】
種里城は、津軽氏発祥の地として知られ城は、赤石川の上流、種里集落の西南約500メートルに位置し、前面は赤石川、背後は大柳沢山嶺をひかえた、東向きの山城である。延徳3年(1491年)、南部氏は鼻和全郡を与えるとして南部光信(大浦光信)が、種里城に入りました。三戸南部氏が安藤氏(安東氏)との抗争地帯であった津軽西海岸の掌握をはかるため、一族の光信を種里に派遣したとされています。光信は、文亀2年(1502年)津軽進出の拠点として西根城を改修し、子の大浦盛信が居城しました。大永6年(1526年)光信が死去し種里城内に埋葬されました(光信公御廟所)。その後は大浦城が代々大浦氏の居城となり、元和元年(1615年)一国一城令が出され種里城は廃城となりました。







◆牡丹園

◆大浦光信公像

◆資料館「光信公の館」



◆本丸跡

◆城主の館跡



◆奈良主水源貞親御墓所



◆光信公御廟所




♢種里城跡へのアクセス
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