なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

岩手県

衣川館

所在地:岩手県西磐井郡平泉町高館
別名:衣河館、高館義経堂、判官館
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:藤原氏、源義経
遺構:なし
再建造物:義経堂
指定文化財:なし
訪城日:2022年8月10日(火)晴
駐車場:高館義経堂駐車場



【歴史】
衣川館は、現在の岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館である。源義経の最期の場所として知られる。衣河館とも表記され、高館義経堂、判官館とも呼ばれる。中尊寺表参道入口から東南東に約500メートル、北上川左岸の丘陵にあり、元々藤原基成の館であったとされる。『吾妻鏡』によれば、義経主従は文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、再三にわたる源頼朝の要求に屈した藤原泰衡に襲撃され(衣川の戦い)、妻(郷御前)・娘と共に自害した。伝承や『義経記』などの物語によると、郎党の武蔵坊弁慶も舘の前で敵兵と対峙するも、身体に無数の矢を受け立ったまま絶命、いわゆる「弁慶の立往生」を遂げた。
館の跡には天和3年(1683年)に仙台藩藩主伊達綱村により跡地に義経堂と義経の木像が建立された。

◆入口

◆説明板



◆高館から眺める北上川

◆義経堂



◆義経の木像


♢衣川館へのアクセス

盛岡城跡

所在地:岩手県盛岡市内丸1番37号
別名:不来方城
築城年:慶長3年(1598年)
築城主:南部信直
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:南部信直、南部重直
遺構:石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
再建造物:外郭櫓門、政庁南門、東門、築地塀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月9日(月)晴
駐車場:盛岡城跡公園地下駐車場
日本100名城:No6
スタンプ設置場所:もりおか歴史文化館
※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

♢盛岡公園HP


【歴史】
南部信直は1590年(天正18年) 三戸城居城安とその所領を豊臣秀吉より安堵され、南部藩の祖藩となった。1591年(天正19年)九戸政実が反乱を起こしたが、信直は、自力で鎮定できず秀吉に助力を要請し、豊臣秀次を総大将とする援軍の力を借りて勝利を得た。そこで信直は、九戸氏の宮野城を修築して福岡城と改名し三戸城から移った。1592年(文禄元年)浅野長政らの助言を受け、不来方の地を本拠とすべく整地を開始。1593年(文禄2年)工事に着手したが、1599年(慶長4年)に南部信直は福岡城で没した。信直死後は嫡男の利直が引き継ぎ、慶長年間(1615年)には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を盛岡に改めた。盛岡城の全城が竣工したのは4代藩主重直の時代、1633年(寛永10年)である。翌1634年(寛永11年)失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とした。翌年の1635年(寛永12年)には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えた。1871年(明治4年)廃藩置県により廃城。「日本城郭大系2より抜粋」







◆櫻山神社山門

◆櫻山神社由緒

◆櫻山神社社殿

◆盛岡城 下曲輪跡

◆石垣

◆石垣

◆石垣

◆石垣

◆石垣


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◆本丸南西部石垣

◆本丸南西部石垣説明板

◆腰曲輪



◆本丸と二の丸の間の空堀

◆二の丸

◆二の丸

◆井戸跡二の丸



◆三の丸



◆台所屋敷(多目的広場)

◆渡雲橋

◆本丸

◆本丸

◆南部利祥中尉銅像台座


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◆腰曲輪



◆彦御蔵

◆彦御蔵説明板


♢盛岡城跡へのアクセス

志波城跡

所在地:盛岡市上鹿妻五兵エ新田47ー11
別名:斯波城
築城年:延暦22年(803年)
築城主:坂上田村麻呂
廃城年:弘仁2年(811年)頃
主な城主:坂上田村麻呂
遺構:政庁跡など
再建造物:外郭櫓門、政庁南門、東門、築地塀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月9日(月)晴
駐車場:志波城古代公園駐車場

【歴史】
志波城は、平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が造営した古代城柵。胆沢地方において蝦夷の首長アテルイを降伏させた翌年の延暦22年(803年)に、北上川と雫石川合流地近くに造営された。これにより、朝廷は律令制の支配を北上川北部にまで及ぼすことが可能となった。志波城は、陸奥国最北の城柵であり、その平面規模は最大級であり、事実上は朝廷の文武支配が及ぶ最前線基地としての機能を担ったと考えられる。征夷大将軍の坂上田村麻呂は、延暦21年(802年)に胆沢城を、延暦22年(803年)に志波城を築いたが、築城と同時か数年後に鎮守府は胆沢に移転した。正確にいつかは不明である。胆沢の前に志波に置かれた時期があったかもしれないともいわれる。


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◆右手の外大溝(堀)と築地塀
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◆左手の外大溝(堀)と築地塀
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◆復元された外郭南門
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◆外郭南門説明板
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◆築地塀の手前に空堀がある
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◆説明板
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◆左手の櫓(物見・狙撃)
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◆右手の櫓(物見・狙撃)、築地塀、空堀
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◆竪穴建物
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◆説明板
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◆説明板
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◆官衙建物(復元)
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◆政庁南門(復元)
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◆内側の空堀
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◆政庁東脇殿
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◆政庁東門(復元)
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◆政庁正殿
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◆政庁北門
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◆政庁西門(復元)
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◆政庁西脇殿
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♢志波城跡へのアクセス

高水寺城跡

所在地:岩手県紫波郡紫波町二日町字古舘
別名:郡山城、斯波御所
築城年:建武2年(1335年)
築城主:斯波氏
廃城年:寛文7年(1667年)
主な城主:斯波氏、南部氏
遺構:横堀、土塁
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2022年8月9日(月)晴
駐車場:城山公園第一駐車場

【歴史】
北上川右岸の独立丘陵に位置し、東西550m、南北700mに及ぶ平山城です。建武2年(1335年)に足利尊氏が奥州管領とし斯波高経の長子家長を下向させ居城としたことに始まるといわれる。
250年余りの間、高水寺斯波氏の中心拠点として発展しましたが、天正16年(1588年)、斯波詮直は家臣の反乱に遭い南部信直に敗れます。ほぼ無抵抗のうちに陥落した高水寺城は天正19年(1591年)「郡山城」と改称され、盛岡城完成まで南部氏の居城としても使われ改修も行われましたが、寛文7年(1667年)に破却されます。破却以降の旧城域の用途は明らかではないものの、城下には盛岡藩の代官所や御蔵、川港が置かれ地方支配の中心として発展しました。本丸の石垣は、弘化3年(1847年)38代藩主、南部利済によって郡山古城東側に架設された承慶橋建設に用いられたといわれています。最頂部は標高180mを測り、北上川中流域を一望できます。本丸を中心に、若殿屋敷(二ノ丸)、姫御殿、右京屋敷、台所屋敷など、蓮弁状に連なる郭や城域に巡らされた空堀が現在も残されています。『紫波町HPより一部引用』











◆姫御殿跡

◆姫御殿跡

◆銭形平次の故郷みたい

◆高水城説明板

◆主郭

◆主郭跡にある神社






♢高水寺城跡へのアクセス

花巻城跡

所在地:岩手県花巻市花城町
別名:鳥谷ヶ崎城
築城年:1000年代、1591年
築城主: 安倍頼時
廃城年:明治2年(1869年)
主な城主:安倍氏、奥州藤原氏、稗貫氏、北氏、南部氏
遺構:なし
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:市指定史跡(本丸跡)
市指定有形文化財(円城寺門・時鐘堂)
訪城日:2022年8月9日(月)晴
駐車場:鳥谷ヶ崎公園 駐車場

【歴史】
花巻城の地は、「内史略」や「奥羽永慶軍記」等には、前九年の役の安倍頼時の城柵と伝えられている。稗貫氏は室町時代には十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎に移した。周辺には八重畑館や大瀬川館など同じ稗貫一族の城郭が複数あった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。しかし同年の冬、旧領を奪還しようとする和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正19年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた。
天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「鳥谷崎 平城 南部主馬助 持分」とある。
慶長3年(1598年)に北秀愛が死去し、かわって父の北信愛が城代となる。同5年(1600年)に南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙い、和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して一揆を起こした(岩崎一揆)。和賀勢は花巻城や、大瀬川館など周辺諸城を攻め、花巻城の三の丸、二ノ丸を攻略して本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛はそれを撃退した。北松斎は慶長18年(1613年)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めた。その後、南部利直は次男政直に2万石を与え花巻城主とし、政直は花巻城を近世城郭として完成させた。その際に本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。一国一城令ののちも南部の抱え城として認められた。政直急死以後は城代が置かれ、花巻城は和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となったが、明治2年(1869年)に廃城となって取り壊された。 花巻城跡Wikiより抜粋 『日本城郭大系第2巻
◆御役屋跡

◆花巻城案内図

◆花巻城揆奮場跡

◆説明板

◆中御門跡

◆説明板

◆御囲穀御蔵跡

◆焔硝御蔵跡

◆東御門跡

◆鍵御堀跡
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◆長屋前御門跡
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◆内堀
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◆御厩跡

◆御蔵前御門跡

◆鐘堂跡

◆御作事所跡
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◆鐘搗堂前御堀

◆菱櫓跡

◆菱櫓跡からの景色



◆御台所前御門跡

◆説明板

◆本丸御井戸跡
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◆御武具蔵跡

◆本丸跡

◆三社跡

◆西御門(復元)

◆花巻城本丸説明板



◆御長屋跡

◆土塁

◆馬場口御門跡

◆白堀跡
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◆薬研堀跡
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◆花巻城と盛岡藩について
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◆円城寺門

◆説明板




♢花巻城跡へのアクセス

一戸城跡

所在地:岩手県二戸郡一戸町一戸(一戸公園)
別名:なし
築城年:建長年間(1249年~1256年)
築城主:南部義実
廃城年:天正20年(1592年)
主な城主:南部氏、北主馬秀愛
遺構:曲輪
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:一戸公園駐車場

【歴史】
城跡は一戸町北部中央の馬淵川右岸、比高60メートルの台地上にあった。主要郭は南北に連続した段丘崖の高台部を利用した北館、八幡館、神明館、常念館の4つの郭で構成されていた。本丸は北館にあったとされるが、中央の神明館が主郭と考えられる。築城は一戸南部氏の2代目南部義実によって、室町期の建長年間(1249年 - 1256年)とみられる。天正9年(1581年)、城主の一戸兵部大輔政連父子は実弟の平館政包により殺害されて一戸氏の嫡流が滅亡し、一戸城には九戸政実の腹心の一戸図書が入ったが、南部信直は一戸城を攻め落とし、北主馬秀愛を城主として配した。天正19年(1591年)、九戸政実の乱では籠城して九戸氏側の夜襲に耐え、乱の後は石井信助が城代となったが、天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「糠部郡之内 一戸 平城 破 信直抱 代官 石井新助」とあり、破却された。



◆一戸公園は北館

◆八幡館の背後の空堀跡


♢一戸城跡へのアクセス

九戸城跡

所在地:岩手県二戸市福岡字城の内
別名:福岡城、宮野城
築城年:明応年間(1492年 ~1501年)
築城主:九戸氏
廃城年:寛永13年(1636年)
主な城主:九戸氏、南部氏
遺構:曲輪、石垣、堀、土塁
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:九戸城ガイドハウス駐車場
続日本100名城スタンプ:No104
①埋蔵文化財センター
②九戸城ガイドハウス




【歴史】
九戸城は、九戸政実の4代前の光政が明応年間(1492~1501年)に築城したと言われ、その後九戸氏は着実に勢力を拡大します。天正8年(1580年)三戸城主南部24代晴政が死去。晩年まで嫡男が無く、一族の南部信直がその長女の婿に迎えられ世子となっていたが、晴継誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回。晴政の死後、南部は跡目を巡り、信直支持派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中、信直が南部26代目を継ぎます。天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原不参陣の諸氏を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し、奥州地域は不穏な状況でした。この機に乗じ政実は翌年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられますが、9月1日には奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着。6万騎を敵に籠城軍は5千人。しかし、苦戦と疲弊の上方軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれを呑み開門しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城。政実らは、宮城県三迫で処刑、九戸神社と首洗いの池が残っています。これにより、秀吉の国内統一は完了し、名実ともに配下の大名となった信直に、和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ、九戸城を豊臣流の城に改修しました。信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としました。その子重直が盛岡城に本拠を移し、その後、寛永13年(1636年)に廃城となりました。



◆三の丸跡にある九戸城ガイドハウス
(ガイドハウスの方が丁寧で、九戸城に関する概要を説明してくれました。)





◆大手門脇堀跡

◆二の丸跡

◆二の丸搦め手(発掘調査中のため先へは行けず)

◆説明板

◆堀跡

◆本丸南虎口跡

◆説明板

◆堀跡



◆本丸石垣
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◆本丸跡
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◆立ち入り禁止のため本丸へはいけませんでした。

◆堀跡





♢九戸城跡へのアクセス

金田一城跡

所在地:青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下34−2
別名:四戸城
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:天正20年(1592年)
主な城主:四戸氏、切円氏、金田一氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:長寿寺駐車場

【歴史】
金田一城は二戸郡金田一村(現 二戸市金田一仲町)に所在した。城跡は馬淵川左岸の段丘にあり空堀に仕切られた上館、中館、下館からなり、それぞれ四戸氏、切円氏、金田一氏の居城であったと伝えられ三郭を総称して金田一城といったが詳細は不明である。上館は東西100メートル×南北250メートルで最も規模が大きく、これを四戸城ともいう。城跡からは中世~近世の陶磁器類が出土している。天正20年(1592年)の「諸城破却書上」には「金田一 山城破 信直抱 代官 上村 杢之丞」とあり、城は破却された。














♢金田一城跡へのアクセス
長寿寺の東より登ると墓地があり、その東側に「四戸城跡」碑があり、牛石があります。 
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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