なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

城跡

山形城跡

所在地:山形県山形市霞城町1
別名:霞城、霞ヶ城、吉字城
築城主:斯波兼頼
築城年:1356年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏他
遺構:石垣、堀、移築門、移築御殿
再建造物:二の丸東大手門、大手橋
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月11日(水)晴
駐車場:霞城公園駐車場
日本100名城:No10
スタンプ設置場所:二ノ丸東大手門櫓
スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

国指定史跡 山形城 - 山形市


【歴史】
1356年(延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1537年(延文2年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後もたびたび藩主家の変更があったが、格式・規模が次第に低下したため、江戸中期以降は城の維持が困難になった。幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地で、三の丸の西半分は田畑になっていた。1871年(明治4年)廃城となり1875年(明治8年)建物は解体された



◆北側の堀

◆二の丸北門跡

◆二の丸







◆最上義光公勇戦の像

◆最上義光公勇戦の像の説明板

◆二の丸東大手門 櫓門(復元)

◆二の丸東大手門 櫓門(復元)

◆堀
Z5V_2382


Z5V_2383

◆二の丸東大手門(復元)
Z5V_2384

◆二の丸東大手門(復元)の説明板





◆巽櫓跡

◆巽櫓跡の説明板

◆横矢

◆横矢の説明板

◆塀礎石(土塁上に立てられた塀の基礎石)

◆二の丸南大手門跡

◆二の丸南大手門跡

◆二の丸南大手門跡の説明板
Z5V_2409

◆南側の堀
Z5V_2410

◆雁木(南大手門)
Z5V_2413

◆雁木の説明板

◆坤櫓跡

◆坤櫓跡の説明板



◆西側の堀

◆二の丸西不明門跡

◆二の丸西不明門跡


Z5V_2424

◆石垣崩落跡

◆石垣崩落跡の説明板

◆一文字大手橋

◆本丸一文字門

◆本丸一文字門の説明板

◆石垣と堀

◆本丸御殿跡(現在復元整備中みたい)

◆井戸跡?





◆復元完成図


♢山形城へのアクセス

仙台城

所在地:宮城県仙台市青葉区川内1
別名:青葉城、五城楼
築城主:伊達政宗
築城年:1601年(慶長6年)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:伊達氏
遺構:石垣、土塁、堀
再建造物:脇櫓
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月10日(火)晴
駐車場:青葉城有料駐車場
日本100名城:No8
スタンプ設置場所:仙台城見聞館 9時~17時
※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

青葉城 本丸会館



【歴史】
仙台城は、文禄元年(1592年)まで、旧領主国分盛重の居城であった。築城の経緯については明らかでなく、盛重は、慶長元年(1596年)か慶長4年(1599年)に伊達家を出奔したため千代城は廃城になったと思われます。伊達政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。1600年(慶長5年)政宗は築城を開始。地名を仙台と改めた。仙台城は通称「青葉城」ともよばれ、仙台平野を見下ろす天険の地青葉山に築かれ、標高は高いところで131.4m、東は広瀬川に落ちる64mの断崖、南は80mの深さの竜ノ口狭谷が固める天然の要害で、将軍家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったといわれています。慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。政宗の死後、二代藩主忠宗(ただむね)は山麓部に二の丸を造営しました。二の丸が完成した寛永16年(1639年)以降は、幕末まで二の丸が藩政の中心となりました。明治4年(1871年)廃藩置県により廃城しました。

◆大手門脇櫓





◆二の丸跡

◆二の丸跡の説明板

◆宮城縣護國神社



◆宮城縣護國神社大鳥居

◆本丸跡地に建つ宮城縣護國神社拝殿



◆仙台城大広間跡








Z5V_2333

◆本丸北壁の石垣モデル

◆本丸北壁の石垣モデル

◆本丸北壁の石垣モデル説明板

◆大広間模型

◆工事中の伊達政宗騎馬公像

◆展望台からの眺望
Z5V_2343

◆御成門跡

◆詰門跡

◆本丸石垣

◆沢門跡

◆埋門跡


♢仙台城へのアクセス

多賀城

所在地:宮城県多賀城市市川
別名:なし
築城年:神亀元年(724年)
築城主:大野東人
廃城年:不明
主な城主:大野東人
遺構:政庁跡など
再建造物:
指定文化財:国特別指定史跡
訪城日:2022年8月10日(火)晴
駐車場:多賀城管理事務所駐車場など
日本100名城:No7
スタンプ設置場所:多賀城跡管理事務所(多賀城政庁跡北側)
※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。




【歴史】
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。天平宝字6年(762年)に、藤原恵美朝狩が改修、宝亀11年(780年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、貞観11年(896年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、そして、11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894年)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載されている。

◆多賀城管理事務所

◆説明板



◆政庁南大路跡
Z5V_2257

◆政庁南大路跡の説明板

◆排水用石組桝

◆排水用石組桝の説明板


Z5V_2260

◆多賀城南門

◆多賀城碑

◆多賀城碑の説明板







◆政庁南大路の石垣(再現)
Z5V_2269

◆政庁南門跡

◆政庁南門跡の説明板

◆政庁復元模型

◆東翼廊跡



◆政庁正殿跡

◆政庁正殿跡の説明板

◆政庁東殿跡
Z5V_2284

◆政庁東殿跡の説明板

◆土塁


Z5V_2287

◆六月坂地区の役所跡
Z5V_2290

◆六月坂地区の役所跡の説明板
Z5V_2292

◆建物跡







◆外郭北東隅


Z5V_2299

◆外郭東門跡

◆外郭東門跡

◆外郭東門跡の説明板

◆掘立柱式建物

◆掘立柱式建物の説明板


Z5V_2306

◆東門北櫓跡
Z5V_2307

◆東門北櫓跡の説明板
Z5V_2308

◆外郭櫓跡



◆外郭東門路(平安時代の敷石道路)

◆役所群の北門と塀

◆役所群の北門と塀の説明板



♢多賀城へのアクセス

九戸城跡

所在地:岩手県二戸市福岡字城の内
別名:福岡城、宮野城
築城年:明応年間(1492年 ~1501年)
築城主:九戸氏
廃城年:寛永13年(1636年)
主な城主:九戸氏、南部氏
遺構:曲輪、石垣、堀、土塁
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2022年8月8日(月)晴
駐車場:九戸城ガイドハウス駐車場
続日本100名城スタンプ:No104
①埋蔵文化財センター
②九戸城ガイドハウス




【歴史】
九戸城は、九戸政実の4代前の光政が明応年間(1492~1501年)に築城したと言われ、その後九戸氏は着実に勢力を拡大します。天正8年(1580年)三戸城主南部24代晴政が死去。晩年まで嫡男が無く、一族の南部信直がその長女の婿に迎えられ世子となっていたが、晴継誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回。晴政の死後、南部は跡目を巡り、信直支持派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中、信直が南部26代目を継ぎます。天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原不参陣の諸氏を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し、奥州地域は不穏な状況でした。この機に乗じ政実は翌年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられますが、9月1日には奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着。6万騎を敵に籠城軍は5千人。しかし、苦戦と疲弊の上方軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれを呑み開門しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城。政実らは、宮城県三迫で処刑、九戸神社と首洗いの池が残っています。これにより、秀吉の国内統一は完了し、名実ともに配下の大名となった信直に、和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ、九戸城を豊臣流の城に改修しました。信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としました。その子重直が盛岡城に本拠を移し、その後、寛永13年(1636年)に廃城となりました。



◆三の丸跡にある九戸城ガイドハウス
(ガイドハウスの方が丁寧で、九戸城に関する概要を説明してくれました。)





◆大手門脇堀跡

◆二の丸跡

◆二の丸搦め手(発掘調査中のため先へは行けず)

◆説明板

◆堀跡

◆本丸南虎口跡

◆説明板

◆堀跡



◆本丸石垣
Z5V_1980


Z5V_1982

◆本丸跡
Z5V_1981

◆立ち入り禁止のため本丸へはいけませんでした。

◆堀跡





♢九戸城跡へのアクセス

彦根城跡

所在地:滋賀県彦根市金亀町1-1
別名:金亀城
築城年: 1622年(元和8年)
築城主: 井伊直継
廃城年: 1874年(明治7年)
主な城主:井伊氏
遺構:現存天守、 櫓、門、塀、馬屋
石垣、土塁、堀
再建造物:御殿、石碑、案内板
指定文化財:国宝(天守等2棟)
重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
特別史跡(彦根城跡)
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:二の丸駐車場など 
日本100名城スタンプ設置場所:開国記念館(彦根城域内)



♢歴史
井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、三成の居城であったことを嫌い、琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。1606年(慶長11年)天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により御殿が建造され、1622年(元和8年)彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。

明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし老朽化していたため、結局民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果天守や櫓の保存が決定し、さらに陸軍省管轄の施設から皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された。『日本城郭大系11参照』

■二の丸佐和口多門櫓

■二の丸佐和口多門櫓

■馬屋
馬屋は、二の丸佐和口多門櫓のすぐ北側に位置するL字形をした建物で、北側に潜戸をつけた門があり、内部には、21もの馬立場・馬繋場が設けられ、東端には馬を管理する小部屋が付けられています。屋根は、柿葺(こけらぶき)で、壁は、上を大壁とし下を簓子下見板張(ささらこしたみいたばり)となっています。この馬屋には、常時藩主の馬十数頭がつながれていました。建立年代は明らかではありませんが、元禄年代(1688〜1703)頃と考えられています。この馬屋は、全国の近世城郭内に残る大規模なものとして、他に例がなく昭和38年7月1日に重要文化財に指定されています。
『現地説明板より』







■表門橋
Z5V_0582

■内堀

■内堀

■登り石垣

■登り石垣説明板

■表門


Z5V_0591



■天秤櫓
天秤櫓が築かれたのは、築城開始から数年後のことで、彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』によれば、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記されています。
そして昭和30年代に行われた解体修理では、この櫓が移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されています。







■天秤櫓

■天秤櫓





■鐘の丸

■鐘の丸
Z5V_0605

■鐘の丸説明板




Z5V_0610



■時報鐘
天守へ向かう石段の途中にある「時報鐘」は、江戸時代から絶えることなく、朝から3時間おきに、6時、9時、12時、15時および18時の1日に5回、城下に鳴り響く。
築城当初は、鐘の丸に設置され、城下に時を知らせていたようだが、より遠くまで音色が届くように太鼓門近くの高台に移されたと伝える。江戸時代の絵図には「鐘突所」と記されている。

■太鼓門櫓及び続櫓

■太鼓門櫓及び続櫓

■太鼓門櫓及び続櫓裏側

■本丸と天守

■本丸

■着見台(着見櫓跡)
Z5V_0628

■着見台(着見櫓跡)説明板

■着見台(着見櫓跡)からの風景







■城内の門扉


 hspace=

■太鼓門櫓

■天守

■天守

■天守

■西の丸

■西の丸三重櫓
西の丸三重櫓は本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓をくの字に付設しています。



■西の丸三重櫓石垣と大堀切
Z5V_0653

■西の丸三重櫓石垣と大堀切

■出郭

■超小型電気自動車コムス ひこにゃん号



■黒門橋
Z5V_0658

■内堀

■楽々園
国の名勝、井伊直興によって建てられた彦根藩の下屋敷

■槻御殿

■茶座敷(地震の間)





■井伊大老像

■家老木俣屋敷跡

■二の丸佐和口多門櫓

■二の丸佐和口多門櫓

■二の丸佐和口多門櫓説明板

■中堀


Z5V_0687

■埋木舎
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年(1759年)頃と見られる。 井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの、天保2年(1831年)以後15年を過ごした屋敷として有名で、「埋木舎」は直弼の命名である。本来は「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」の名で呼ばれていた。

■今回はひこにゃんには出会えませんでしたが、以前に見た際の画像がありますので少し載せておきます。





♢彦根城跡へのアクセス

佐和山城跡

所在地:滋賀県彦根市古沢町
別名:なし
築城年:鎌倉時代
築城主: 伝・佐保時綱
廃城年: 慶長11年(1606年)
主な城主:佐保氏、小川氏、磯野氏
丹羽氏、石田氏、井伊氏
遺構:石垣、土塁、堀、曲輪、ほか
再建造物:石碑、案内板
指定文化財:なし
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:佐和山城無料駐車場

♢歴史
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190年~1198年)の文書にその名が見える。応仁の乱の後、六角氏家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。しかし戦国時代後半に入ると、六角氏勢力は衰退、それにともない浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。元亀年間(1570年~1573年)には城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに石田三成が入城したとされる。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)。

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ入城した。領民達の前領主への思慕を断ち切ることが出来ないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。



■佐和山会館前にある天守模型

■天守模型説明板

■駐車場にある看板

■龍潭寺入り口

■龍潭寺からの登城口

■龍潭寺門内にある大久保忠隣公幽居之址

■佐和山観音像

■龍潭寺門内に建つ石田三成像

■龍潭寺山門

■野猿に注意

■本丸まであと600m地点

■西の丸(塩硝櫓跡)

■西の丸(塩硝櫓跡)

■西の丸(塩櫓跡)説明板

■西の丸(塩櫓跡)

■西の丸





■西の丸説明板



■本丸

■本丸から見える彦根城



■佐和山城跡石碑

■本丸説明板

■土塁



■千貫井

■千貫井と石垣説明板

■本丸の石垣隅石

■竪堀

■二の丸、三の丸に行こうと思いましたが、道が分からず断念しました。同じく法華丸、太鼓丸も未訪問です。

♢佐和山城跡へのアクセス

鎌刃城跡

所在地:滋賀県米原市番場
別名:なし
築城年:応仁の乱以前
築城主: 土肥三郎元頼
廃城年: 天正3年(1575年)
主な城主:土肥氏、堀氏、浅井氏
遺構:曲輪、堀切、石垣、枡形虎口、水の手、竪堀
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:鎌刃城跡駐車場

続日本100名城:No157
スタンプ設置場所
Cafe&Gallery「源右衛門」案内パンフレットボックス

♢歴史
鎌刃城跡は、米原町の東部の標高384mを頂点とする山稜に所在する中世の山城跡である。
城跡が位置する山稜は、京極領と六角領の境に位置し、この周辺には佐和山城・菖蒲嶽城・太尾山城・磯山城などが所在し、こうした城跡は境目の城として機能した。鎌刃城の築城年代は明らかではないが、『今井軍記』には文明4年(1472)の京極家の家臣による鎌刃城攻めの記事があることから、応仁の乱の時期には築城されていたものと考えられている。また、天文期には近江守護六角氏による鎌刃城在城の京極家家臣であった堀氏攻めが行われている。堀氏は、この時期六角氏側についたり、浅井氏側に属するようになったりしたが、元亀元年(1570)に織田信長に内応して、浅井氏に対抗するようになる。天正2年(1574)、堀氏は信長により改易され、城内に備蓄されていた米穀二千俵が徳川家康に与えられたことが記録に見え、この後鎌刃城は廃城となったものと思われる。
城跡の遺構の分布する範囲は、東西約400m、南北約500mを測り、江北地方では浅井氏の居城小谷城跡に次ぐ規模である。主郭を中心に北方尾根上に7箇所、南方尾根上に2箇所、西方尾根上に8箇所の曲輪を設け、主郭を含む一部の曲輪は周囲を石灰岩の石積みで構築している。また、尾根の先端はすべて堀切で防備され、西方尾根には連続竪堀群が見られる。
「蓮華寺」には築城主と伝わる土肥三郎元頼公のお墓があるそうです。
土肥三郎元頼公は正応元年(1288)に逝去したと伝わっている。

■番場城跡から戻って鎌刃城跡へ向かいます

■鎌刃城大手口

■登城途中にクマ除けの鐘がありますが壊れていて鳴らせません。

■北副部虎口の方へ向かいました。(大堀切は未訪問)





■北ーⅥ曲輪跡
Z5V_0396

■曲輪説明板

■北ーⅥ大櫓跡

■北‐Ⅴ曲輪虎口


Z5V_0401



■枡形虎口説明板

■水の手

■水の手説明板

■水の手下石垣

■石垣

■北ーⅤ曲輪
Z5V_0410



■クマ除けの鐘(叩く棒が無かった。)

■大石垣



■北ーⅣ2郭

■北ーⅣ2郭

■北ーⅣ1郭

■北ーⅢ郭

■北ーⅡ郭

■北ーⅠ郭

■主郭虎口下

■主郭虎口下

■主郭

■主郭虎口

■主郭説明板
Z5V_0433





■南Ⅱ郭土塁

■南Ⅱ郭

■南Ⅱ郭土塁

■南Ⅰ郭

■南Ⅰ郭

■大堀切

■大堀切

■南Ⅱ郭



■南Ⅱ郭と土塁

■鎌刃城跡の見どころ

■西郭に向かいます。(非常に急斜面ですのでかなり危険です。もし行かれるのであれば登山靴と軍手必須です。)

■堀切

■ここから西郭へ
Z5V_0450

■西ー1郭(西Ⅱ郭へ降りる際は本当に気を付けて下さい。)



■西ー2郭



■堀切

■西ー3郭
Z5V_0456

■堀切

■西ー4郭

■西ー5郭

■西ー6郭

■西ー7郭

■竪堀

■西ー8郭

■畝状竪堀群
Z5V_0467


Z5V_0468


Z5V_0469


Z5V_0470

来た道を、戻るのはすごく大変そうなので、このまま下山することにしました。なので、先に最初に北の大堀切を見て北副部に行くのが良いかと思います。
■鎌刃城御城印


♢鎌刃城跡へのアクセス

二條古城跡

所在地:京都府京都市上京区烏丸出水町ー新町丸太町
別名:なし
築城年:永禄12年(1569年)
築城主:織田信長
廃城年:天正元年(1573年)
主な城主:足利氏
遺構:石垣(復元移築)
①二条城西橋付近の休憩所付近
②京都御苑の椹木口横
再建造物:石碑,案内板
指定文化財:なし
訪城日:2020年9月21日(月)晴
駐車場:なし

♢歴史
足利義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。

■二条古城址石碑



■二条古城案内板


♢二条古城へのアクセス

ヲンネモトチャシ跡

所在地:北海道根室市温根元59 ほか24ヶ所
別名:なし
築城主:不明
築城年:16~18世紀頃
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:盛土(土塁)、壕、郭
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2020年8月10日(月)曇
駐車場:温根元シャチ無料駐車場
日本100名城:No1
スタンプ設置場所:①根室市歴史と自然の資料館
②根室市観光インフォメーションセンター(根室駅前)
③北方領土資料館
※スタンプ設置場所に変更があることもありますので、城巡り行く前には必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

♢歴史 「チャシ」はアイヌ語で「柵囲い」を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途で使われていたとされます。北海道内でチャシ跡は500ヶ所ほど確認されており、根室市内には32ヶ所のチャシ跡が残り、うち24ヶ所は「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡に指定されています。また、平成19年には日本城郭協会が定める日本100名城のひとつ(お城番号1番)として選定されました。根室市内のチャシ跡が築かれた正確な年代は不明ですが16~18世紀頃とされています。根室市内のチャシ跡は、海を臨む崖上に、半円形や方形の濠を巡らせた「面崖式」(めんがいしき)のチャシ跡が多く、濠を組み合わせた大規模なものが多いことで知られています。現在、見学先として整備されているのはノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所です。



♢ヲンネモトシャチ跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

※写真及び記事内容などの無断転載を禁止します。

※相互リンク募集中です。リンクはフリーです。

※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。

※掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: