なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

土浦城跡

♢城郭情報
所在地:茨城県土浦市中央1丁目13(亀城公園)
別名:亀城
築城主:若泉三郎
築城年:永享年間(1429年~1441年)
廃城年: 明治6年(1873年)
主な城主:若泉氏、小田氏、松平氏西尾家、朽木家、土屋家
主な改修者: 松平信一・信吉、西尾忠照、朽木稙綱・種昌
遺構:太鼓櫓門、土塁、堀
再建造物:東櫓・西櫓
指定文化財:茨城県指定史跡
訪城日:2024年5月2日(木)晴
駐車場:土浦市立博物館第2駐車場

続日本100名城:No113
スタンプ設置場所:土浦市立博物館
御城印販売場所:①土浦市立博物館土浦市観光協会(まちかど蔵「大徳」)
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。

【歴史】
室町時代の永享年間(1429年から1441年)に常陸守護であった八田知家の後裔で豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城した。永正13年(1516年)、若泉五郎左衛門が城主の時に小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時は信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城を奪回するが、永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐したが、天正13年(1583年)に小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は後北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。関東に入った徳川家康は、土浦を結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が入封した。その後、松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が入封した。以後、城主は西尾家・朽木家と代わり、寛文9年(1669年)には土屋数直が入封した。土屋家は、天和2年(1682年)に政直のときにに駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び6万5千石で入封した。その後、3度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋家が11代(約200年間)にわたって世襲して明治維新に至った。廃藩置県の2年後、1873年(明治6年)土浦城は廃止された。



◇旧前川口門

◇旧前川口門の説明板


Z5V_5589

◇聖徳太子堂



◇内濠

◇外濠

◇土浦城霞門


Z5V_5596


Z5V_5597

◇東櫓
Z5V_5598

◇西櫓

◇西櫓の説明板









◇太鼓櫓門



◇二の丸跡


♢土浦城跡へのアクセス

小田城跡

♢城郭情報
所在地:茨城県つくば市小田2377
別名:なし
築城主:八田知家
築城年:文治元年(1185年)
廃城年: 慶長7年(1602年)
主な城主:小田氏
遺構:曲輪、堀、土塁、櫓台、虎口、桝形
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年5月2日(木)晴
駐車場:小田城跡専用駐車場
御城印販売場所:小田城跡歴史ひろば

【歴史】
小田城は、小田氏の祖・八田知家が文治元年(1185年)に常陸国守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると言われる。その後、南北朝期には、当主・小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。後北条氏と結んだ小田氏治は、永禄7年(1564年)に山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強いられ、激しい小田城争奪戦が繰り広げられる。何度も落城と奪還を繰り返したが、天正元年(1573年)の手這坂の戦いに敗れて小田城は佐竹氏のものとなり、以降小田氏の手には戻らなかった。手這坂の戦いには永禄12年(1569年)説も有り、翌元亀元年(1570年)に太田資正が城主になり、同3年(1572年)に資正の子の梶原政景が城主になったという。
のち、佐竹氏の一族・小場義宗が城主になったが、慶長7年(1602年)に佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になった。



◇北堀





◇北堀

◇本丸

◇大手口と堀



◇東曲輪(曲輪Ⅱ)

◇東曲輪(曲輪Ⅱ)の説明板



◇東虎口跡

◇東虎口跡の説明板

◇小田氏と小田城説明板

◇発掘調査からわかった本丸跡説明板

◇北虎口跡

◇北虎口跡の説明板

◇◇

◇建物域

◇建物域の説明板

◇大溝・暗渠跡

◇大溝・暗渠跡の説明板

◇掘立柱建物跡・井戸跡

◇井戸跡

◇掘立柱建物跡・井戸跡の説明板

◇東池跡

◇東池跡の説明板

◇西池跡

◇西池跡の説明板

◇西南虎口跡

◇西南虎口跡の説明板

◇堀

◇南西馬出曲輪かな?

◇堀

◇小田城の説明板

◇本丸跡


♢小田城跡へのアクセス

真壁城跡

♢城郭情報
所在地:茨城県桜川市真壁町古城
別名:なし
築城主:真壁長幹
築城年:承安2年(1172年)
廃城年: 江戸時代前期
主な城主:真壁氏、浅野氏
遺構:土塁、掘割、土居
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年5月2日(木)晴
駐車場:真壁体育館駐車場
御城印販売場所:真壁伝承館受付

【歴史】
承安2年(1172年)大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、郡家の場所に築城した。以来真壁氏の居城として続いた。
城は東西に延びる尾根状の微高地に立地し、中央の本丸を同心円状に囲む二ノ丸があるほか、二ノ丸の東側に三の郭(中城)・四の郭(外郭)が続き、外郭南東端には鹿島神社が祭られている。本丸西側にも郭が連なっていたが、市街地化により消失している。城の南北は湿地や川が防御となっていた。

応永30年(1423年)、真壁慶幹のとき小栗満重の乱に小栗方で参加したため足利持氏軍によって落城したが、その後の混乱の中で慶幹の従兄弟・朝幹が真壁に復権した。
17代久幹のときに次男義幹が柿岡城に分家し、18代氏幹に至って甥の柿岡城主房幹(義幹の子)に家督を譲ったため、真壁城は真壁本家の城ではなくなった。その後、慶長7年(1602年)佐竹氏の秋田転封の際、佐竹氏の家臣団化していた真壁氏も出羽角館へ移住し、真壁城は空城となった。そののち慶長11年(1606年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、同16年(1611年)に長政の跡を継いで真壁城に浅野長重が入城した。元和8年(1622年)、浅野長重は加増され、真壁は領有し続けるものの常陸笠間城へ移動となり、真壁城は廃城となった。











◇一の堀

◇一の堀の説明板







◇東虎口跡

◇東虎口跡の説明板



◇外曲輪 北虎口跡

◇外曲輪 北虎口跡の説明板





◇Ⅳjの堀

◇Ⅳの堀

◇外曲輪 北虎口

◇外曲輪 北虎口

◇鹿嶋神社

◇鹿嶋神社









◇外曲輪 南虎口





◇Ⅲの堀

◇中城庭園跡

◇中城庭園跡の説明板

◇中城庭園跡

◇中城庭園跡の説明板

◇大型建物 舞台状建物跡



◇主殿

◇主殿



◇中城



◇中城 南虎口

◇中城 南西土塁


Z5V_5534

◇二の丸 東虎口
Z5V_5535

◇二の丸 東虎口の説明板

◇Ⅱの堀



◇本丸虎口

◇本丸虎口の説明板


♢真壁城跡へのアクセス

笠間城跡

♢城郭情報
所在地:茨城県笠間市笠間3613
別名:桂城
築城主:笠間時朝
築城年:承久元年(1219年)
廃城年:明治4年(1868年)
主な城主:笠間氏、宇都宮氏、蒲生郷成、牧野氏
主な改修者:蒲生郷成
遺構:空堀、石垣、土塁、井戸、移築櫓、門
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年5月2日(木)晴
駐車場:なし

続日本100名城:No112
続日本100名城スタンプ:かさま歴史交流館 井筒屋
御城印販売場所:かさま歴史交流館 井筒屋
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。

【歴史】
笠間城は、宇都宮一族であり、この地域を治めた笠間時朝によって、承久元年(1219年)に築城が開始され、嘉禎元年(1235年)に完成したと伝えられています。その後笠間氏は18代にわたって笠間を治め、南北朝時代の5代笠間泰朝の時には、南朝に属して勤王の兵を挙げ、北朝の佐竹義春の攻撃を受けたが、籠城戦の末これを撃退している。

天正18年(1590年)の小田原征伐の際、18代笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らい、同戦役後宇都宮氏に攻められ滅亡した(通説では笠間氏が後北条氏に組したために宇都宮氏に攻められたとされているが、笠間綱家が宇都宮氏に従って小田原征伐に参加した記録が存在するため、別の理由であると考えられている)。その後、一時宇都宮氏が支配した後蒲生郷成が入城し、この郷成の手により織豊系城郭に改修されたと考えられている。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入り、その後小笠原氏が入ったが改易されて、ついで戸田松平家が入り、そして永井氏が入った。その後、外様大名の浅野氏が2代、井上氏が2代、本庄氏が2代、再び井上氏が3代入った後、牧野貞通入城以後廃藩まで牧野氏8代が居城した。
明治3年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の廃城令により廃城処分とされ、建物は取り壊された。

◇笠間城の説明板

◇笠間城主下屋敷跡

◇時鐘

◇時鐘の説明板







◇治功神社

◇千人溜り跡(的場丸)

◇駐車場

◇笠間城跡の説明板

◇石垣

◇大手門跡











◇本丸跡

◇本丸跡土塁

◇八幡台櫓跡
Z5V_5472

◇八幡台櫓跡

◇本丸跡



◇石垣





◇天守曲輪に鎮座する佐志能神社


♢笠間城跡へのアクセス

多良崎城跡

♢城郭情報
所在地:茨城県ひたちなか市足崎字館990
別名:多良崎要害、多良崎館
築城主:多良崎里幹
築城年:1330年頃
廃城年:1590年(天正18年)
主な城主:多良崎氏、江戸氏(足崎氏)
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2024年5月2日(木)晴
駐車場:なし

【歴史】
鎌倉時代末期の1330年頃に築城されたとされる。築城者は常陸大掾吉田太郎広幹の三男里幹、通称多良崎三郎とされ、この地で地頭をしていたが南北朝の騒乱で南朝に味方して没落し、次いで江戸通重の次男平沢通村の子孫、足立五郎左衛門通義、又五郎通定が城主となり、代々足崎氏を名乗った。しかし、天正18年(1590年)常陸統一を目指す佐竹氏に攻略され落城し、廃城となったとされる。



◇多良崎城跡の案内板

◇一の戸跡

◇二の戸跡

◇大手門跡



◇本郭



◇二の郭

◇二の郭


Z5V_5442

◇空堀
Z5V_5443

◇三の郭
Z5V_5444


Z5V_5445

◇多良崎城跡付近の城館跡の説明板
Z5V_5446

◇のろし台跡

◇のろし台跡


♢多良崎城跡へのアクセス

水戸城跡

♢城郭情報
所在地:茨城県水戸市三の丸
別名:馬場城、水府城
築城主:馬場資幹
築城年:1190~1198年(建久年間)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
主な改修者:佐竹義宣、徳川頼房
遺構:曲輪、空堀、土塁、馬出し
再建造物:なし
指定文化財:茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
訪城日:2024年5月1日(水)雨
駐車場:弘道館駐車場

日本100名城:No14
日本100名城スタンプ設置場所:弘道館料金所窓口
御城印販売場所:①(一社)水戸観光コンベンション協会②水戸観光案内所③北澤売店(要弘道館入館料)
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。



【歴史】
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年~1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。

1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
1427年(応永34年)大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。
1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。

同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充して二の丸に居館を構えた。天守と称するものは幕府に憚って構えず、破風などのない、巨大な三階櫓を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。水戸城は1871年(明治4年) の廃藩置県により廃城となった。

◇本丸空堀(現・JR水郡線)

◇水戸城の説明板

◇水戸城本丸跡

◇旧水戸城医薬門

◇旧水戸城医薬門の説明板

◇杉山門

◇杉山門の説明板

◇杉山坂

◇杉山坂の説明板




Z5V_5399




Z5V_5401

◇二の丸角櫓

◇二の丸角櫓の礎石

◇彰孝館跡
Z5V_5408

◇彰孝館跡の案内板

◇水戸師範学校跡

◇水戸師範学校跡の説明板

◇木造復元された大手門

◇木造復元された大手門

◇徳川斉彬公像

◇弘道館正門



◇弘道館について









◇徳川頼房公像

◇柵町坂下門

◇柵町坂下門の説明板


♢水戸城跡へのアクセス

下総國古河藩小山御殿跡

♢城郭情報
所在地:栃木県小山市中央町1丁目3
別名:祇園城
築城主:小山政光、北条氏、本多正純
築城年:1622年(元和8年)
廃城年:1682年(天和2年)
主な城主:小山氏
遺構:曲輪、土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:小山市役所駐車場

【歴史】
徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として建てられました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったともいわれています。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され、一周忌が営まれます。
それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも三代将軍の家光は10回も社参を行っています。
小山御殿は、かなり厳重な配置になっており、周囲に堀を廻らし、土塁を二重に築き、敷地内には16ヶ所もの御番所が設けられていました。
将軍家の日光社参は寛文3年(1663年)に4代将軍家綱が行って以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728年)に再開するまで財政難を理由として途絶えてしまいます。
この間、台風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682年)、古河藩によって解体されてしまいました。『現地案内板より』

◇市指定史跡小山評定跡

◇市指定史跡小山評定跡の説明板

◇御殿跡(奥に土塁)

◇御殿広場の案内板

◇御殿跡

◇御殿跡


♢小山御殿跡へのアクセス

小山氏城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県小山市城山町1丁目1
別名:祇園城、小山城
築城主:小山政光
築城年:1148年(久安4年)
廃城年:1619年(元和5年)
主な城主:小山氏、北条氏、本多正純
遺構:曲輪、空堀、土塁、馬出し
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:城山公園駐車場

【歴史】
小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。

小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。

その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏照に降伏して開城し北条氏照の手によって改修され[2]、北関東攻略の拠点となっているが、天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。

小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。

明治時代には第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建てられたが、現存してはおらず、発掘調査で礎石と思われるものが確認された。

別名である祇園城は小山氏の守護神である祇園社(現須賀神社)からとったものである。

◇空堀

◇本祇園曲輪跡

◇空堀

◇空堀

◇塚田曲輪跡

◇空堀

◇空堀

◇中曲輪跡(馬出し)

◇祇園橋(工事中のため先へは行けませんでした)

◇北久保跡

◇北久保跡

◇北久保跡


♢小山氏城跡へのアクセス

栃木城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県栃木市城内町
別名:なし
築城主:皆川広照
築城年:天正19年(1591年)
廃城年:慶長14年(1609年)
主な城主:皆川広照
遺構: 土塁、堀
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:なし

【歴史】
栃木城は、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して皆川城は落城または開城し、広照は翌天正19年(1591年)、皆川広照によりこの城が築かれるにいたった。本丸、東二の丸、蔵屋敷、東三の丸、南三の丸からなる城郭で、城の鬼門に東宮神社が祀られています。城の南は円通寺、西はもくれい川を隔て町に接しています。
のちの栃木宿を城下として近隣の郷村から諸社寺を現在地に移し計画的な町づくりを行いましたが、城は1609年(慶長14年)将軍徳川家康による広照の改易と、城取り壊し政策により廃城となる。築城からわずか19年間という短い歴史であった現在は、塀の跡や土塁の一部が残るだけとなっています。

◇堀

◇堀



◇栃木城の説明板





◇本丸

◇本丸






♢栃木城跡へのアクセス

皆川城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県栃木市皆川城内町
別名:法螺貝城
築城主:皆川秀宗
築城年:永享元年(1429年)
廃城年:天正18年(1590年)
主な城主:皆川氏
遺構:土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
標高:147.3m
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:皆川城址公園駐車場

【歴史】
皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから、法螺貝城とも呼ばれる。当初、寛喜年間(1229年 -~1232年)に皆川宗員によって築かれたと言われているが、これは主郭の東の白山台の館跡だと思われます。この皆川氏は元享3年(1323年)に、6代宗常が、鎌倉幕府執権北条高時に背いたため領地を没収され断絶しました。

新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされたが、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。

皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正18年(1590年)皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。



◇皆川城の説明板

◇皆川城公園案内図





◇竪堀

◇西の丸跡







◇本丸

◇皆川城跡縄張り図

◇眺望

◇本丸




♢皆川城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

※写真及び記事内容などの無断転載を禁止します。

※相互リンク募集中です。リンクはフリーです。

※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。

※掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: