♢城郭情報
所在地:栃木県宇都宮市本丸町2−24
別名:亀ヶ岡城
築城主:藤原秀郷または藤原宗円
築城年:延長5年(927年)
廃城年:1868年
主な城主:宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
主な改修者:本多正純
遺構:土塁、大いちょう、石垣
再建造物:清明台櫓、富士見櫓、土塁・堀、土塀
指定文化財:なし
訪城日:2024年5月1日(水)曇
駐車場:宇都宮城址公園 南駐車場

【歴史】
築城年代は不明ですが、平安時代後期、藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。

戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した。

宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が110万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。
さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。

宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された。

正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6~7万石で治め、幕末を迎える。

宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した。

◇土橋の石垣跡

◇土橋の石垣跡の説明板



◇堀跡

◇堀跡の説明板



◇富士見櫓

◇堀

◇二の丸跡



◇本丸跡
Z5V_5244

◇清水門
Z5V_5245

◇清水門の説明板

◇本丸堀

◇本丸堀の説明板

◇本丸跡

◇清見台





◇富士見櫓


♢宇都宮城跡へのアクセス