♢城郭情報
所在地:栃木県栃木市皆川城内町
別名:法螺貝城
築城主:皆川秀宗
築城年:永享元年(1429年)
廃城年:天正18年(1590年)
主な城主:皆川氏
遺構:土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
標高:147.3m
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:皆川城址公園駐車場
【歴史】
皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから、法螺貝城とも呼ばれる。当初、寛喜年間(1229年 -~1232年)に皆川宗員によって築かれたと言われているが、これは主郭の東の白山台の館跡だと思われます。この皆川氏は元享3年(1323年)に、6代宗常が、鎌倉幕府執権北条高時に背いたため領地を没収され断絶しました。
新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされたが、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。
皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正18年(1590年)皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。
◇
◇皆川城の説明板
◇皆川城公園案内図
◇
◇
◇竪堀
◇西の丸跡
◇
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◇本丸
◇皆川城跡縄張り図
◇眺望
◇本丸
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♢皆川城跡へのアクセス
所在地:栃木県栃木市皆川城内町
別名:法螺貝城
築城主:皆川秀宗
築城年:永享元年(1429年)
廃城年:天正18年(1590年)
主な城主:皆川氏
遺構:土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
標高:147.3m
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:皆川城址公園駐車場
【歴史】
皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから、法螺貝城とも呼ばれる。当初、寛喜年間(1229年 -~1232年)に皆川宗員によって築かれたと言われているが、これは主郭の東の白山台の館跡だと思われます。この皆川氏は元享3年(1323年)に、6代宗常が、鎌倉幕府執権北条高時に背いたため領地を没収され断絶しました。
新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされたが、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。
皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正18年(1590年)皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。
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◇皆川城の説明板
◇皆川城公園案内図
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◇竪堀
◇西の丸跡
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◇本丸
◇皆川城跡縄張り図
◇眺望
◇本丸
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♢皆川城跡へのアクセス