♢城郭情報
所在地:茨城県水戸市三の丸
別名:馬場城、水府城
築城主:馬場資幹
築城年:1190~1198年(建久年間)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
主な改修者:佐竹義宣、徳川頼房
遺構:曲輪、空堀、土塁、馬出し
再建造物:なし
指定文化財:茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
訪城日:2024年5月1日(水)雨
駐車場:弘道館駐車場
日本100名城:No14
日本100名城スタンプ設置場所:弘道館料金所窓口
御城印販売場所:①(一社)水戸観光コンベンション協会②水戸観光案内所③北澤売店(要弘道館入館料)
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。
【歴史】
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年~1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
1427年(応永34年)大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。
1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充して二の丸に居館を構えた。天守と称するものは幕府に憚って構えず、破風などのない、巨大な三階櫓を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。水戸城は1871年(明治4年) の廃藩置県により廃城となった。
◇本丸空堀(現・JR水郡線)
◇水戸城の説明板
◇水戸城本丸跡
◇旧水戸城医薬門
◇旧水戸城医薬門の説明板
◇杉山門
◇杉山門の説明板
◇杉山坂
◇杉山坂の説明板
◇
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◇二の丸角櫓
◇二の丸角櫓の礎石
◇彰孝館跡
◇彰孝館跡の案内板
◇水戸師範学校跡
◇水戸師範学校跡の説明板
◇木造復元された大手門
◇木造復元された大手門
◇徳川斉彬公像
◇弘道館正門
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◇弘道館について
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◇徳川頼房公像
◇柵町坂下門
◇柵町坂下門の説明板
♢水戸城跡へのアクセス
所在地:茨城県水戸市三の丸
別名:馬場城、水府城
築城主:馬場資幹
築城年:1190~1198年(建久年間)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
主な改修者:佐竹義宣、徳川頼房
遺構:曲輪、空堀、土塁、馬出し
再建造物:なし
指定文化財:茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
訪城日:2024年5月1日(水)雨
駐車場:弘道館駐車場
日本100名城:No14
日本100名城スタンプ設置場所:弘道館料金所窓口
御城印販売場所:①(一社)水戸観光コンベンション協会②水戸観光案内所③北澤売店(要弘道館入館料)
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。
【歴史】
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年~1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
1427年(応永34年)大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。
1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充して二の丸に居館を構えた。天守と称するものは幕府に憚って構えず、破風などのない、巨大な三階櫓を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。水戸城は1871年(明治4年) の廃藩置県により廃城となった。
◇本丸空堀(現・JR水郡線)
◇水戸城の説明板
◇水戸城本丸跡
◇旧水戸城医薬門
◇旧水戸城医薬門の説明板
◇杉山門
◇杉山門の説明板
◇杉山坂
◇杉山坂の説明板
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◇二の丸角櫓
◇二の丸角櫓の礎石
◇彰孝館跡
◇彰孝館跡の案内板
◇水戸師範学校跡
◇水戸師範学校跡の説明板
◇木造復元された大手門
◇木造復元された大手門
◇徳川斉彬公像
◇弘道館正門
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◇弘道館について
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◇徳川頼房公像
◇柵町坂下門
◇柵町坂下門の説明板
♢水戸城跡へのアクセス