♢城郭情報
所在地:千葉県君津市久留里 字内山
別名:雨城、霧降城、浦田城
築城主:武田信長
築城年:康正2年(1456年)
廃城年:明治5年(1872年)
主な城主:上総武田氏、里見氏、後北条氏、大須賀忠政、土屋忠直、黒田氏
主な改修者:里見義堯、黒田直純
遺構:土塁、堀切、郭、土橋、井戸
再建造物:模擬天守
指定文化財:未指定
訪城日:2024年5月3日(金)晴
駐車場:久留里城址駐車場(無料)

御城印販売場所:君津市久留里観光交流センター

【歴史】
上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に築城したといわれるのが史実に基づく最初の築城である。その後、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じて里見氏がこれを抑えた。

天文4年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在の城地に久留里城を築いた(ただし、年代に異説あり)。永禄7年(1564年)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落した。その後、再び里見氏が奪還した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は私戦を禁じた惣無事令違反により、秀吉の不興を買い安房一国の領有はゆるされたが、上総の所領を没収された。この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平忠政が3万石を与えられ入城した。忠政は城下町整備に尽力し後の基盤が出来上がった。その後、江戸時代には久留里藩の藩庁となった。慶長6年(1601年)松平忠政が関ヶ原の戦いの功により3万石加増の上、遠江国横須賀城に転封となった。代わって土屋忠直が2万石で入城した。土屋氏は延宝7年(1679年)改易となり廃藩、一時廃城となった。寛保2年(1742年)上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩した。黒田氏は明治維新まで居城し、明治5年(1872年)廃城令により久留里城の歴史は終わった。

◇堀切

◇堀切

◇堀切

◇天神曲輪

◇男井戸・女井戸

◇男井戸・女井戸

◇波多野曲輪

◇模擬天守

◇本丸天守跡

◇本丸天守跡の説明板

◇模擬天守

◇丹生廟遺迹

◇丹生廟遺迹の説明板

◇本丸天守跡と模擬天守



◇新井白石銅像

◇里見北条古戦史(二の丸横の薬師曲輪)
里見北条古戦史
戦国時代の天文二十三年(一五五四)晩秋北条綱成は二万余騎の軍兵を従えて向郷に陣屋を構え 里見義堯、義弘の守る久留里城を攻撃して来た
久留里城は知将義堯の戦略によつて湯名城主山本右馬允 一宮城主須田将監 鳴戸城主忍足美作守 大多喜城主正木時茂 周西城主茂木与茂九郎などの武将が馳せ参じ小櫃川を挟んで数十日間余の攻防を展開しついに北条軍をを撃退した
とくに茂木与茂九郎は十六才の少年武将であったが敵将葛西右京介と小櫃川の中で組み討ちとなり討ち果たした
弘治元年再度北条軍の攻撃を受け激戦となつたが城は落ることなく難攻不落の名を坂東に高めた

文 土橋幸一 書 浦部英葉
昭和五十四年八月吉日 上総ライオンズクラブ

◇薬師曲輪

◇眼下に望む三の丸位置図

◇雨城八幡宮

◇二の丸跡に建つ君津市立久留里城址資料館

◇長野田番所跡

◇お玉が池

◇お玉が池の説明板

◇久留里曲輪

◇堀切

◇堀切の説明板

◇上総 久留里城の説明板


♢久留里城跡へのアクセス