なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

京都府

穴太城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市曽我部町穴太口山(小幡神社)
別名:穴穂城・長谷山堡、長谷山砦。長谷山要害
築城主:不明
築城年:不明
廃城年:不明
主な城主:赤沢氏
遺構:石垣
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:小幡神社駐車場

【歴史】
穴太城の築城年代など詳細は不明ですが、『野田泰忠軍忠状』によると、応仁・文明の乱の際、東軍方の野田秦忠は、応仁三年(1469年)に西軍に破れ「丹州穴太」に退き、そこを拠点に摂津を攻めたとある。また、『石田家系全』によると、天正6年(1575年)赤沢加賀守義政は長沢因幡守智であることから、笑路城城主長沢氏と親戚関係にあったことがわかる。
本丸は東西52メートルx南北50メートルの不規則な五角形をなし、西には二の丸、東には三の丸を配した梯郭式の平山城となっています。
『日本城郭体系11参照』

◇小幡神社社殿





◇登り口
天候が悪くなって来たのと、登り口が、倒木で、かなり荒れていたので登れず断念しました。


※登り口が、神社から300mほど離れた場所に桜広場(主郭)へ登る道があるようです。
♢穴太城跡へのアクセス

余部城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市余部町古城(西岸寺)
別名:過部城、余部丸岡城、丸岡城、円岡城、岡山城
築城主:不明
築城年:不明
廃城年:不明
主な城主:野田泰忠、長尾大和守、中沢氏、福井氏、明智氏、能勢氏
遺構:石垣
再建造物:石碑(丸岡城跡)、説明板
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:西岸寺駐車場
御城印販売場所:西岸寺

【歴史】
築城年代については不明です。応仁・文明の乱の際、丸岡城は東軍の拠点となっていた。、文明元年(1469年)6月、東軍の野田泰忠や安富又次郎が「余部之城」へ入っており、同年10月、丹波に侵攻する西軍を防ぐため、二人は再び「余部之城」に入っている。
天文年間(1532~55年)の頃の城主は、中沢因幡守正綱で、没落後は福井因幡守貞政が余部城主になったようです。その後は、多紀郡八上城の波多野氏の勢力が食い入り、天正年間(1573~92年)の頃には、福井因幡守貞政が城主となった。織田信長の命を受けて明智光秀が丹波進攻を開始し、天正5年(1577年)明智光秀は、余部城に使者を送り、早く降伏して忠節を尽くすよう勧告したが、使者の髻を切り腰刀を奪って追放したため、翌天正6年(1578年)明智光秀は余部城を攻撃。城主の福井因幡守貞政は籠城し頑強に抵抗した後に切腹して自害したと伝わる。更に勢いに乗じた光秀は八上城も攻め落とし丹波を手中にし、荒塚山に亀山城を築いた。

◇西岸寺と城跡石碑





◇丸岡城(余部城)跡の説明板




♢余部城跡へのアクセス

亀山城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市荒塚町周辺
別名:亀宝城、亀岡城、霞城
築城主:明智光秀
築城年:天正6年(1578年)
廃城年:明治10年(1877年)
主な城主:明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
遺構:石垣、堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:大本本部駐車場
御城印販売場所:総合受付、大本万祥殿

注意事項
*大本神苑拝観券を購入された人のみ見学が可能になります。(入館チケット高校生以上300円)
*城跡の見学可能時間は、午前9時30分~午後4時00分です。
*拝観券は、大本本部みろく会館総合受付または万祥殿でお買い求めください。
*いちょう台(明智光秀手植えのいちょうの子孫と伝わる木のあたり)周辺および天守台があった場所は立ち入りおよび撮影は禁止です。      
*城跡の見学以外の目的で大本本部駐車場を利用することはできません。

【歴史】
織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)に築城。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となったが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝・豊臣秀勝・豊臣秀俊や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入った。
秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛を入封させ、丹波亀山藩主に任じた。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築した。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。
寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となった。1877年(明治10年) 政府が廃城処分を決定し、天守は解体された。

◇案内図
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◇亀山城古写真



◇三ノ丸内堀。現在は万祥池

◇万祥池の奥へ









◇石垣

◇天下普請の刻印

◇天下普請の刻印の説明板

◇三の丸跡に建つ万祥殿

◇本丸入口

◇石垣

◇石垣は3段目までが当時のもので、あとは大正8年に全て積み直した



◇天守台石垣

◇天守台

◇井戸跡





◇天守台跡

◇保津門跡
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◇外堀

◇外堀

◇南郷公園にある明智光秀公像と鯱瓦

◇明智光秀公像


◇亀岡城の城門(新御殿門)は現在、千代川小学校に移築されています。

◇新御殿門

◇文覚寺(京都府亀岡市保津町)には城門
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◇城門
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※雨が降り出したので、未訪問ですが桂林寺(亀岡市本梅町平松)と延福寺 本坊表門(亀岡市本梅町西加舎)には明智門があります。移築された邁訓校校門(個人宅)が亀岡市千代川町千原学堂にあります。

♢亀山城跡へのアクセス

保津城跡

♢城郭情報
所在地:京都府亀岡市保津町山ノ坊
別名:なし
築城主:不明
築城年:南北朝時代
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:曲輪、土塁、堀切
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:なし

【歴史】
保津城については、築城年代や築城者については定かでないが、南北朝時代から存在しているといわれています。
「遠山家文書」の中に「中津河小次郎秀家申丹波国所々至軍忠事」に観応3年(1352年)、5月14日に保津城を攻め落としたと書かれ、丹波守護代・荻野朝忠が「承候了」と花押を与えている。
『日本城郭大系11より抜粋』

◇明智越え入口
明智光秀が本能寺の変の直前に、亀山城から愛宕山の愛宕神社に参詣した時に通ったとされる道。
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◇明智越え説明板
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◇愛宕さん説明板
愛宕神社は、山城と丹波の境にそびえ立つ愛宕山上に鎮座しており、現在は火伏せの神様として知られています。中世においては、本地仏として本殿に祀られていた勝軍地蔵が諸国の武士たちから「いくさの神様」として信仰を集め、光秀もこれを信仰していました。
光秀と愛宕神社との関係は深く、光秀が天正3年(1575年)から始まる丹波国攻略に向けて出陣した際に、いくさに勝てるようにと愛宕神社に戦勝祈願を依頼した書状が数通残されています。これは、信長から任された重要な丹波攻略を成功させるという光秀の強い意志の表れと思われ、戦勝祈願のお礼として勝ち取った土地や金銭などを愛宕神社に奉納していたこともわかります。
『亀岡市文化資料館執筆より抜粋』

◇山坊甚五郎住処跡
保津町には毎月十日は「味噌汁を飲まない」という風習がある。
牛松山に鎮座する金比羅神社の祭神・大物主命(おおものぬしのみこと)は継母に育てられたが、食事は味噌汁だけしか与えられず、ひもじい思いをしていた。
その頃、保津村に“山坊甚五郎”という悪戯好きの雄狐が棲んでいたが、甚五郎は大物主命を哀れみ、密かに食事を分け与えて育てることにした。甚五郎は自分と大物主命の分の食事を調達するため、村人に化けて旅人を騙し、食料をせしめていたという。その後、成長した大物主命は保津の守り神(金比羅神)となり、村人から厚く信仰されるようになった。そして保津の村人たちは、味噌汁しか与えられなかった金比羅神に遠慮すると共に、神を育てた山坊甚五郎への感謝の意を込め、月命日にあたる十日は味噌汁を飲まないという。
『丹波の伝承』「狐、二題」
『保津百景道しるべ』「No.28 味噌汁の恩返し 金比羅に感謝」より



◇堀切

◇城跡標識

◇土橋

◇郭跡

◇堀切












♢保津城跡へのアクセス

園部城跡

♢城郭情報
所在地:京都府南丹市園部町小桜町周辺
別名:薗部城、園部陣屋
築城主:小出吉親
築城年:元和5年(1619年)
廃城年:明治5年(1872年)
主な城主:小出氏
遺構:石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所、太鼓櫓
再建造物:なし
指定文化財:京都府暫定登録文化財(巽櫓、櫓門、番所)
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:園部総合公園駐車場
御城印販売場所:南丹市立文化博物館受付
※御城印販売場所の営業時間等、変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
園部城は元和 5年(1619年)の園部藩成立後、初代藩主小出吉親が小麦山周辺地に築造を開始し、その 2年後に完成したものです。吉親は、この時に櫓も築造しようとしましたが、江戸幕府の許可が得られず、建築は見送られました。このため幕府の制度上としては陣屋という扱いになりましたが、敷地は総構で南北約 650m、東西約 400mで、二重堀や鉄砲を撃つ狭間を設けた塀などもあり、規模としては城とも呼べるものでした。しかしながら、この時に「城」とならなかったことが、幕末維新期に新たな展開を迎えることになりました。元治元年(1864年)12月、園部藩は幕府に対し、新規に櫓門 3 ヶ所、櫓 9 基、さらには、本丸以外の塀にも狭間を築造したいと絵図を添えて願い出ます。幕府へ提出した書状によれば、初代吉親の築造時には、塀に狭間を配置し、二重堀や櫓台まで完成していたが、その後に延期となったままであること、池田屋事件や禁門の変などの武力衝突が相次いで起こり、警備を厳重にすることを仰せ出されている情勢であること、また、園部は京都から近く、そういった際には要衝地ともなることなどが理由として述べられています。しかし、この時も築城は認められず、園部藩では引き続き幕府との交渉を行い、慶応 3年(1867年)10月、ついに内諾を得ることができました。しかし、その直後に大政奉還が行われたため正式な許可が出ず、翌年の 1月に改めて新政府に願い出ることになります。新政府へ願い出た築城の理由も幕府へ提出したものと同内容でしたが、今回は「帝都御守衛」のためとして、すぐに認められました。そして、櫓門3ヶ所、櫓 5基の普請が行われ、さらには堀も造成して園部陣屋は園部城へと生まれ変わったのです。しかし、園部藩の政治的な拠点としての役割は短く、明治 4年(1871年)には廃藩置県が実施され、藩は廃止されてしまいました。『南丹市教育委員会社会教育課』

※南丹市八木町の安楽寺には園部城から移築したと伝えられる太鼓櫓が現存しています。

◇小麦山櫓跡(三重櫓跡)

◇小麦山櫓跡(三重櫓跡)



◇模擬天守(南丹市国際交流会館)

◇模擬天守(南丹市国際交流会館)

◇園部城の石標

◇櫓門

◇本丸巽櫓

◇本丸巽櫓
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◇本丸巽櫓
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※京都府立園部高等学校の敷地なので中に入ることは出来ませんでした。許可を取れば入れるみたいです。園部城跡から距離はありますが、安楽寺(京都府南丹市八木町北屋賀国府26)に移築された太鼓櫓があります。

♢園部城跡へのアクセス

灰方城跡

♢城郭情報
所在地:京都府京都市西京区大原野灰方町(心光院)
別名:なし
築城主:不明
築城年:室町時代
廃城年:不明
主な城主:
遺構:不明
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:なし

【歴史】
灰方城跡の城歴については詳細不明です。


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未訪問ですが、西迎寺(京都市西京区大原野南春日町651)を含む周辺は、大原野野田城跡だそうです。興味がある方はいかれてみてはいかがでしょうか。

♢城跡へのアクセス

長峰城跡

♢城郭情報
所在地:京都府京都市西京区大原野石作町40
別名:なし
築城主:不明
築城年:室町時代
廃城年:不明
主な城主:
遺構:不明
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年10月27日(金)曇りのち雨
駐車場:なし

【歴史】
長峰城跡の築城年や城主など詳細は不明です。現在は、八幡宮社 (長峰八幡宮)が鎮座しています。由緒は不明ですが、祭神として応神天皇、天照大神を祀ります。大歳神社に合祀された式内・石作神社の旧地とも云われる。社殿下には、八幡宮1号墳があり、古墳時代の円墳だそうです。その後、長峰城が築かれたと云われている。

◇八幡宮社入口





◇社殿







◇石垣





◇空堀

◇主郭

◇堀切か?


♢長峰城跡へのアクセス

寺戸城跡

所在地:京都府向日市寺戸町古城、西野(例慶公園)
別名:
築城年:室町時代後期
築城主:竹田氏?
廃城年:不明
主な城主:竹田氏、野田氏
遺構:なし
再建造物:案内板
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:なし

【歴史】
寺戸城の詳細は不明ですが、西岡被官衆のひとり、竹田氏の居城として知られています。
竹田成忍は、足利尊氏より領家職半分をもって地頭職を与えられ、観応元年(1350年)に安堵されています。応仁の乱が勃発すると、寺戸は激戦地の1つとなったが、その時の寺戸城主は野田泰忠となっている。応仁の乱では細川勝元が率いる東軍に味方して、野田泰忠ら国人衆は西岡を始めとする乙訓郡で上洛する西軍の軍勢と戦っていた。しかし、戦闘が京都から周辺地域に移ると西岡が狙われる状況になり、応仁2年(1468年)から東西両軍が入り乱れて合戦を繰り返すようになった。文明元年4月19日、谷の堂(京都市)を根拠とする西岡国人衆は鶏冠井城(向日市)に籠城する西軍を襲撃したが、僅か3日後の22日に西軍の畠山義就が出撃、谷の堂は落とされ西岡国人衆は丹波へ逃亡している。







■例慶公園内に標柱あり


♢寺戸城跡へのアクセス

物集女城跡

所在地:京都府向日市物集女町中条
別名:
築城年:室町時代後期
築城主:小野氏
廃城年:天正3年(1575年)
主な城主:小野氏
遺構:曲輪、土塁、横堀
再建造物:案内板
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:なし

【歴史】
物集女城は、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の居城跡と考えられています。
長享元年(1487)上久世庄(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者6人の中に物集女四郎右衛門尉光重の署名が見られます。この物集女氏はおそらく幕府の西岡被官衆の一人で、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものでしょう。
織田信長が山城地域を鎮圧したのち、天正元年(1573)細川藤孝は桂川西岸一帯の一職を与えられ、国人らの領土を安堵しました。安堵を受けた国人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきでありましたが、物集女氏の当主忠重入道宗入は、代々の自分の領地であり参上するいわれはないと拒絶したため、勝竜寺で誘殺され、以後、同氏は衰退しました。
城跡は、この付近にある土塁と濠によって確認できます。土塁は、幅7~12m、高さ1.0~1.5mの規模で、北東隅の一部と東辺45m分が残っています。濠は、幅5~10mを測り、深さ1m以上あります。現在も水を貯えている部分は、昔から地域の人々の用水池として利用されてきました。
こうした遺構から、城は東西100m、南北75mの規模を有していたことがわかります。この大きなムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定できます。敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった副郭にあたると思われます。
また、この地域は、中海道遺跡(弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地にあたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地として人々の生活の足跡が残されている所でもあります。
向日市教育委員会(現地西側案内板より)

■主郭

■物集女城跡説明板

■立ち入り禁止となっています




♢物集女城跡へのアクセス

石見城跡

所在地:京都市西京区大原野石見町
別名:なし
築城年:不明
築城主:小野氏
廃城年:不明
主な城主:小野氏
遺構:曲輪、土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年10月9日(土)晴
駐車場:なし

【歴史】
石見城の詳細は不明ですが、小野氏の居城と推定されています。小野氏は「応仁・文明の乱」では西軍方に属していたと思われ、1469年(文明元年)に東軍方の武将である野田泰忠らに火を放たれたとの記録があります。この時に落城した可能性が高いと思われる。現在城址には善峰川に臨んで屈曲する土塁や堀が現存しています。城の西側でおこなわれた発掘調査では建物や井戸などが見つかっています。



■空堀

■空堀

■空堀





■土塁








♢石見城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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