なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

丹波市

兵主西砦跡

所在地:兵庫県丹波市春日町黒井4−1
別名:兵主神社西砦跡
築城年:不明
築城主: 不明
廃城年: 不明
主な城主:不明
遺構:空堀、土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年5月3日(月)晴
駐車場:兵主神社駐車場
(未登城)

♢歴史
兵主神社西砦は、城の中心である黒井城を守るために4つの尾根の重要な位置に築かれたうちのひとつで、天正3年(1575年)から天正7年(1579年)に及ぶ明智光秀軍との攻防戦に備えた頃に築かれたと思われます。



■兵主神社由緒
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■境内案内図

■兵主神社本殿と絵馬殿

■登り口の防獣柵
柵がロープで縛っています。鍵が掛けれないからだと思いますが、念のため登城するのを止めましたがロープを解けば中に入れるかと思います。


♢兵主西砦跡へのアクセス

黒井城跡

所在地:兵庫県丹波市春日町多田
別名:保月城、保築城
築城年:建武年間(1334年~1338年)
築城主: 赤松貞範
廃城年: 天正12年(1584年)
主な城主:赤松氏、赤井氏、斎藤利三、堀尾吉晴
遺構:石垣、空堀、郭跡、堀切、土塁等
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2021年5月3日(月)晴
駐車場:黒井城駐車場
続日本100名城(163番)
スタンプ場所:春日住民センター
丹波市HP 黒井城跡

♢歴史
丹波市春日町黒井地域の北にそびえる城山(標高356m)に位置する。猪ノ口山の三方尾根伝いに曲輪群を配置し全山を要塞化している。建武年間に赤松貞範が築城。戦国時代には赤井直正の居城となる。天正7年(1579年)、赤井直義の時、明智光秀に攻められ落城。斎藤利三が城主となり、今日の規模にまで改修した。山崎の戦いの後、堀尾吉晴が入城。関ヶ原の戦いの後、川勝秀氏が城主となるがその後廃城となった。約250年間存続した。

赤松時代
『嘉吉記』によると、足利尊氏に従軍し、新田義貞軍と戦った功績により建武2年(1335年)12月12日丹波国春日部を赤松貞範に所領され、この時に築城が始まったと思われているが、これに対して猪ノ口山にはまだ築城されていなかったという意見もある。軍事的な緊張があって初めて城が築かれるので、戦闘が終息する時期に築城するのはおかしいというのがその理由である。 その後、赤松五代、約120年間この地を統治していたようである。

その後の経緯については、現在史料が確認されていないので詳しくは解らないが、赤松氏に代わり荻野氏が春日部領を次第に納めていったのではないかと考えられている。その後の記録では天文年間(1532年~1554年)に荻野秋清が黒井城主となっていた。一方、赤井氏は氷上町の後屋城を拠点としていた。赤井時家の息子、赤井直正を荻野正元に質子として朝日城に送っていた。荻野正元の息子が黒井城の城主、荻野秋清である。


天文23年(1554年)1月2日赤井直正は荻野秋清へ年初の挨拶に黒井城に出向いていた。その後、荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取ってしまう。『赤井時家書状』によれば、赤井直正は再び朝日城に預けられていることが確認されているので、父荻野正元が放った刺客ではなかったかと思われている。
赤井直正は悪右衛門直正と名乗り、黒井城を拠点に政敵である三好氏との戦いを続けた。永禄7年(1564年)に多紀郡へ侵攻、翌永禄8年(1565年)には、三好氏方の松永久秀の弟、松永長頼(内藤宗勝)を福知山市にある和久城付近で討ち取り、丹波国から反細川晴元勢力を一掃し、但馬国、丹後国へ勢力を拡大させていった。

第一次黒井城の戦い
永禄13年(1570年)3月、織田信長に拝謁した赤井直正(この時は改姓し荻野直正と名乗っていた)と赤井忠家は服命し、氷上郡、天田郡、何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。ところが山名祐豊らが、山垣城の足立氏を攻め立てた。黒井城の赤井直正と赤井忠家は即応し、山垣城に救援に向かい山名祐豊軍を撃退した。その後勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫った。山名祐豊は織田信長に援軍を要請、天正3年(1575年)明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになる。赤井直正は竹田城から黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。明智光秀は黒井城を包囲し、攻城戦が2ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が明智光秀軍の背後をつき、総退却となった。「赤井の呼び込み戦法」と言われている。

第二次黒井城の戦い
赤井直正や弟の赤井幸家は、吉川元春に援軍を要請していたが、援軍は到着しないまま翌天正5年(1577年)10月、明智光秀は細川藤孝、細川忠興の増援を得て、第二次丹波国征討戦が開始される。このような緊迫した中、翌天正6年(1578年)3月9日、赤井直正(荻野直正)が病死してしまう。

赤井直正の子、赤井直義は幼少であったため、弟の赤井幸家が後見となって赤井家を統率することになり、明智光秀軍に備えた。しかし、明智光秀軍は波多野秀治の八上城の攻城から取り掛かり、同年6月1日開城した。
また、明智光秀軍は八上城包囲中に、八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城し、氷上郡の西部を羽柴秀長に、氷上郡の東部を明智秀満に攻略させ、黒井城の支城を押さえ孤立無援にした。そして、八上城落城から約2ヵ月後の8月9日、黒井城もついに落城した。

斎藤、堀尾時代
明智光秀は重臣の斎藤利三を氷上郡に置き統治させた。斎藤利三の娘である春日局(幼名:福)はこの地で生まれた。本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀であったが、逆に山崎の戦いで敗れると明智光秀の勢力は完全に丹波国から駆逐されてしまう。

その後、黒井城に入城したのは羽柴秀吉の家臣であった堀尾吉晴であったが、天正12年(1584年)羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、赤井直正の弟赤井時直が黒井城と余田城で徳川家康に通じ立て篭もった。
これを最後に黒井城は歴史に幕を閉じ、廃城になったと思われる。
『黒井城wikiより抜粋』

■登山口の駐車場

■駐車場にある赤井直正解説版

■明智光秀解説版

■緩やかコースと急坂コースがありますが急坂コースから登ります。

■最初に階段があります。

■猪垣門扉(開けたあとは必ず閉めてから登ってください。)

■三段曲輪

■三段曲輪
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■太鼓の段跡

■太鼓の段からの風景

■石踏の段跡

■赤井氏の招魂碑

■この扉を開けて本丸に向かいます。

■東曲輪跡

■東曲輪跡

■三の丸跡

■三の丸跡

■本丸下石垣

■二の丸跡



■本丸前の空堀

■本丸前の空堀

■石垣

■石垣

■本丸にある城跡石碑

■本丸

■本丸からの景観

■腰曲輪

■風景

■扉があるところから西の丸に向かいます。かなり急斜面なので気を付けて降りてください。

■注意書き

■西の丸

■曲輪2(両端に土塁)

■土塁

■奥に櫓台

■櫓台
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■堀切

■土橋と堀切

■曲輪3



■堀切

■堀切

■曲輪4

■櫓台
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♢興禅寺
黒井城の下館跡。戦国の城主は、合戦のとき山城にたてこもり、平時はふもとの下館で政務を行いました。水をたたえた七間濠、高石垣と白いぬり塀をめぐらせた興禅寺は、当時の館の風情をよく今に残しています。天正7年、明智光秀の重臣斉藤利三が城主となり、娘のお福(春日局)がここで生まれ3歳まで育ちました。




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■庭園

■春日局の産湯
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■春日局生誕地案内板

■黒井城門の部材が転用されたと伝わる山門


♢黒井城跡へのアクセス
興禅寺(兵庫県丹波市春日町黒井2263)

多田砦跡

所在地:丹波市春日町多田428(円光寺)
別名:なし
築城年:不明
築城主: 不明
廃城年: 不明
主な城主:不明
遺構:郭
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年5月3日(月)晴
駐車場:円光寺

♢歴史
多田砦の詳細は不明である。黒井城の出城の一つとして東側尾根先に造られている。

■円光寺

■淡島神社ものがたり

■鳥居

■稲荷神社

■登城口

■保月城義人の碑

■防獣柵を開けて登城します。

■登城道



■郭跡

■主郭への道

■主郭




♢多田砦跡へのアクセス

小富士山城跡

所在地:兵庫県丹波市春日町小多利(桃源寺)
別名:なし
築城年:天正6年(1578年)
築城主: 明智光秀
廃城年: 不明
主な城主:明智光春
遺構:郭、土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年5月3日(月)晴
駐車場:桃源寺

♢歴史
旧宮津街道の拠点として築かれ、天正年間に本拠を黒井城跡(跡地は国指定史跡)に構えた赤井一族を織田信長の命により天正6年(1578年)黒井城攻略の際に明智光秀が陣所を築いたと伝わっています。

♢一夜城伝説
保月城攻撃の明智光秀の本隊が福知山を発して友政・鹿集のふたつ城を落し丹波富士山の頂上に陣したのは天正6年(1578年)12月21日の事でした。明智方が多田村の老女から 保月城の水源を聞き、その水源を止めたのもその頃です。 しかし水の手を止められ兵糧はたくさんあるとは思えない保月城であるのに、赤井方の士気は盛んであった。なんとかして敵の気力をくじかねばならぬ」と光春は、計画を立てました。夜が明け朝もやが明けたころ、保月城の見張りの兵が小富士山を見て一夜のうちに立派な城が出来て朝日に輝いているではありませんか。「オイ小富士に城が出来たぞ」、「馬鹿をいえ。おまえ、まだなにを寝ぼけているんじゃないか、そんなことができるものか」、「論より証拠じゃ。あれをみい」指差す山上を見ると城が見えます。「やっ!えらいことになったぞ」このことはすぐに軍代の明石幸家に伝わりました。城中の兵は、動揺を隠しきれません。この城は、実は表面だけの紙で作った張り子の城で明智方は、これを一夜のうちに作り上げていたのです。
『郷土の城ものがたり 丹有編より抜粋』

■麓にある桃源寺山門<

■桃源寺

■登城道<

■縦堀のようなところを登ります。

■第一展望台からの風景

■このような岩場を登ります。

■第二展望台の風景(正面に黒井城)

■最上展望台から黒井城を撮影

■最上展望台からの風景

■主郭

■主郭にある社殿

■説明板

■主郭

■北郭にある土塁

■北郭

■土塁



■郭

■郭








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♢小富士山城跡へのアクセス

岩尾城跡

所在地:兵庫県丹波市山南町和田
別名:和田城
築城年:永正13年(1516年)
築城主: 和田斉頼
廃城年: 慶長元年(1596年)
主な城主:和田氏、佐野栄有
遺構:曲輪、出丸、石垣、天守台、堀切、土塁、井戸、虎口
再建造物:城跡石碑、説明板
指定文化財:県指定史跡(岩尾城跡)
訪城日:2021年5月3日(月)晴
駐車場:和田小学校(休校日以外は職員室へ連絡が必要です)

♢歴史
岩尾城址は山南町和田の蛇山(標高358m)の山頂に在る。本城は和田氏五代目の和田日向守斉頼が永正13年(1516年)築城し、その子和田作左衛門尉師季の天正7年(1579年)に明智軍の丹波攻めにより落城した。7年後の天正14年(1586年)木戸十乗坊(佐野下総守)が本城主として入部し、文禄4年(1595年)国替えにより転封となり、以後城主はなく、慶長元年(1596年)廃城となった。
現在の城址には戦国時代の山城と、佐野氏改修の近世的な城郭様式とが混在しているが、本丸跡には天守台とそれを取り囲む付櫓の礎石や、野面積みの石垣等がよく残っており、戦国時代末より近世に移行する両時代の様相をとどめた城郭址である。

■和田小学校裏の登城口

■岩尾城説明板

■ここを左側に向かうと城跡

■南曲輪
「傾斜地を削り平らにして造った広場です。周りを急傾斜にし敵兵が侵入しにくく造ってあります。戦時はここにも兵をおき城を守りました。この場所を曲輪といいます。」現地説明板

■南曲輪

■下知殿丸曲輪
「この曲輪は東・南・西の三方面の麓から尾根が集まり、敵兵を防ぐのに重要な位置にあります。南北に60m、東西に15mの長靴状の曲輪です。」現地説明板



■堀切

■堀井戸

>■堀井戸



■ここを登って主郭に向かいます

■石垣

■石垣



■石垣
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■石垣

■石垣<

■西の丸

■西の丸説明板



■<



■物見台

■物見台

■天守台

■天守台からの景色


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■岩尾城中心の縄張り図説明板

■二の丸

■景色


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■<




♢岩尾城跡へのアクセス
丹波市立和田小学校を目指せば良い。

留堀城跡

所在地:兵庫県丹波市市島町酒梨
別名:酒梨城、溜堀城、留堀ヶ城
築城年:建武3年(1336年)
築城主: 赤松貞範
廃城年: 天正七年(1579年)
主な城主:赤松氏、萩野氏
遺構:なし
再建造物:城跡碑
指定文化財:なし
訪城日:20201年5月3日(月)晴
駐車場:なし

♢歴史
溜堀城は、建武3年(1336年)赤松筑前守貞範が春日部庄に領主となり、黒井城を本拠としここに支城として砦を置く。その後、黒井城主・荻野伊予守秋清の下屋敷として使われていましたが、1554年(天文23年)甥の萩野悪右衛門直正(赤井直正)は、秋清を刺殺して城主となり「丹波の赤鬼」と恐れられるほどの剛勇の武将となりました。留堀城代家老には、山川舞左衛門を置きました。
1579年(天正7年)の明智光秀による丹波攻めで黒井城とともに落城しました。しばらくは光秀の家老斎藤利三が管理していましたが、光秀謀反によりこの城も廃城となりました。現在城址に遺構はありませんが、美和コミュニティセンターに城址碑が建てられています。



■留堀城跡碑





■<


♢留堀城跡へのアクセス

鹿集城跡

所在地:兵庫県丹波市市島町上垣(市島中学校)
別名:なし
築城年:建久3年(1192年)頃
築城主: 吉見資重
廃城年: 天正7年(1579年)
主な城主:吉見氏(27代続く)
遺構:なし
再建造物:案内板
指定文化財:なし
訪城日:20201年5月3日(月)晴
駐車場:なし

♢歴史
現地案内板より
始の城名は「鹿聚城」(ろくしゅうじょう)と名付けられ、のち「鹿集城」と書くようになったようである。
承久三年(1221鎌倉時代)源範頼の次男吉見資重(ともしげ)が氷上郡鹿集庄の地頭に補任され入部したという記録があるが、築城年代は不明である。承久の乱後、鎌倉幕府の支配力も畿内や西国の国衛領・荘園にも大きく伸びてゆき幕府の目代・配下がこのに館をもったものである。城の型は、一般的な城というより「とりで」 「やかた」「出城」と言った型であった。戦国騒乱の時代になるにつれて居邸を武装化して城塞化したもののようである。鹿集城のあったこの場所は、当時上垣の集落に続く小高い丘の上に過ぎず、戦国時代に築かれた多くの城塞とは趣を異にして、いわば平和の姿の城(とりで)であった。
天正七巳卯年(1579安土桃山時代)明智光秀の軍勢により落城したと云われる。
この城跡及び民有地を利用して昭和四十六年(1971年)に市島町内の中学校を統一して新しく市島中学校が跡地に建設された。城跡碑はこの後ろにある。

※落城当時の城主は27代吉見則重である。則重の継嗣守重は、黒井城跡に籠城する。天正七年(1579年)に落城。守重の子・吉見治重は柏原藩主の織田信包に仕え、子孫は後に帰農したとされる。

■鹿集城案内板





■城跡碑




♢鹿集城跡へのアクセス

友政城跡

所在地:兵庫県丹波市市島町中竹田(友政城山の里)
別名:日裏ケ城
築城年:天正初め
築城主: 吉松氏
廃城年: 天正6年(1578年)
主な城主:見谷牛右衛門友政(​三谷友政)
遺構:郭・土塁・二重堀切・堀切
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:20201年5月3日(月)晴
駐車場:友政城山の里駐車場

♢歴史
友政城跡は、別名日裏ケ城跡とも呼ばれ、天正の初めにに吉松石見守によって築かれたという。吉松石見守の家老三谷友政が城主となり、天正6年(1578年)十二月、明智光秀の部将明智光春の奇略によって無血開城されたといわれます。麓には、三谷(見谷)牛右衛門友政の屋敷跡と伝えられる土地があり、八幡神社が祀られています。友政城の南は倉崎、北は友政の両部落を抱いて、高谷山系支脈の西に走る所、海抜約200mの尾根の末端にある。 天正期に落城するまでは、黒井城をはじめ鹿集・長谷・譽田等各城相互連絡の拠点であった。
遺構は高谷山より西に続く尾根(俗称城山)の頂上で、東から天守跡があり、西へ本丸以下4段になり、面積は本丸が最大で900平方メートル余ある。石垣は築かれず、尾根を整形して曲輪を連ねている。友政城跡についての記録は、「丹波志」「氷上郡誌」等に詳述されている。当地方には砦や土豪の居館跡が城跡と称され十数ケ所あったようであるが、今日では殆どが当時の様相を失っており、原型をとどめているのは、この友政城跡と譽田城跡だけである。
『日本城郭大系12など参照』

■友政城跡案内板

■友政城登城口のゲート





■西段郭





■郭



■階段を上ると主郭

■主郭

■主郭

■主郭にある土塁

■木々の隙間からの眺望

■二重堀切①

■二重堀切②

■東郭

■縦堀

■土橋


♢友政城跡へのアクセス
この道を行くと友政城山の里に着きます。

誉田城跡

所在地:兵庫県丹波市市島町上鴨田(宗福寺)
別名:余田城
築城年:元暦元年(1184年)
築城主: 余田又太郎為綱
廃城年: 天正6年(1578年)
主な城主:余田氏
遺構:郭・土塁・二重堀切・堀切
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:20201年5月3日(月)晴
駐車場:宗福寺駐車場
参考動画:①余田為家と監物岩(地域歴史研究家 山内順子さん)

♢歴史
誉田城の城主である余田又太郎藤原為綱は、久下・足立・吉見氏らと同様に関東から丹波に移住してきた地頭の末流だといわれる。伝によれば、元暦元年(1184年)二月、余田又太郎為綱が関東より余田谷に来住し、上鴨阪に誉田城を構えたという。

元弘三年(1333年)、 足利尊氏が篠八幡で倒幕の兵を挙げたとき、久下弥三郎をはじめ芦田・酒井・中沢・山内らの丹波武士が馳せ参じたが 余田氏もその一人であった。全盛期には余田谷を本拠として現在の市島町域を席捲する勢いがあったようだ。しかし、赤井氏の台頭と共に その傘下に入ったようである。 

天正三年(1565年)、明智光秀の丹波攻めには鹿集城の吉見氏とともに黒井城主荻野直正に従った。天正六年(1578年)の暮れ、明智方の明智光春の攻撃を防戦した左馬頭為家は敗れて城を脱出、 黒井城へ落ちのびる途中に力尽きて自刃した。その後、子孫は余田谷に帰農したと伝えられている。

宗福寺には明治年間に建てた為家の碑があり法名は「大休院殿碧翁桂玉大禅定門」
『参照日本城郭大系12など』

■県道282号線から城跡へ

■この奥に進むと登城口のゲートがあります(宗福寺墓地の最上段からも行けます)
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■宗福寺(余田為家の碑あり)未確認

■登城口

■堀切を登ります

■堀切

■削平地

■二重堀切

■鉄塔がある削平地

■鉄塔がある削平地からの眺望

■削平地

■堀切

■西郭

■西郭

■堀切

■三郭

■三郭にある土塁

■三郭と二郭の間の堀切

■二郭奥に切岸

■主郭下切岸

■二郭

■主郭

■主郭から東郭を見る

■東郭

■社のある削平地


♢誉田城へのアクセス

山垣城跡

所在地:兵庫県丹波市青垣町山垣
別名:万歳城
築城年:承元3年(1209年)
築城主: 足立遠政
廃城年: 天正7年(1579年)
主な城主:足立氏
遺構:郭・土塁・二重堀切・竪堀
再建造物:説明板
指定文化財:なし
訪城日:20201年5月3日(月)晴
駐車場:なし

♢歴史
現地案内板より
史跡山垣城址と足立氏
山垣城(万歳城)は丹波の名族足立氏居城であった。「尊卑分脈」によると足立氏は遠く藤原鎌足を祖とし14世遠兼が武蔵国足立郡を領した。15世遠元が足立氏を称し、武勇の誉れ高く、鎌倉幕府・源頼朝の武道指範となる。その孫遠政が佐治郷を賜り承元3年(1209年)、この地に移り住み、万歳山に山城を築いた。
以来12代370余年、足立氏の本拠として栄え、足立氏の盛衰と運命をともにした。
天正年間、12代城主・弥三郎基助の時織田信長の丹波攻めにあい但馬から遠坂峠を越え侵攻してきた羽柴秀長の軍勢と明智光秀の軍勢との挟撃にあい、激戦のすえ、天正7年(1579年)5月18日に落城した。
城跡は北から南へ、本丸、二の丸と曲輪跡が連なり、馬場、堀切、土塁の跡もみられ、山麓には「堀の内」「垣の内」の地名がある。
なお、埼玉県桶川市(武蔵国足立郡)に遠元公館跡があり、桶川市史には義を守り友情に厚い武将で源頼朝・政子の信任も厚かったと記されている。

昭和61年11月15日
制作・寄贈 大阪市住之江区南港足立景一(山垣平地)
調査資料  平治物語、吾妻鏡、尊卑分脈、姓氏家系大辞典
      青垣町誌、桶川市史、日本城郭大系、丹波志
協力  城郭研究家 朽木史郎  桶川市史主任 田中利治

補足:
元亀2年(1571年)、山名祐豊と夜久野城主磯部豊直らの攻撃を受け山垣城が落城。しかし直後に山名家に内紛が生じ、祐豊が撤退したためことなきを得る。
天正7年(1579年)5月、羽柴秀長が信長の命を受けて丹波国に侵攻する。足立基助は同族の遠坂城主足立光永とともに防衛するも、落城。戦死を遂げた。子の基依は家臣とともに落ち延び、帰農したとされる。

■ここから登城します。



■足立遠政公の墓

■顕彰碑と説明板

■説明板

■山頂の城跡へ

■登り始めてすぐに祠があります。

■三の丸にある社

■二の丸

■主郭

■郭1

■郭2

■郭3

■郭3から見た切岸

■三の丸に戻って社裏側

■二重堀切<

■二重堀切の1

■二重堀切の2

■手前に堀切とその向こうは南郭

■堀切

■南郭より一段下の郭

■一段下の郭より最端の堀切


♢山垣城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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