なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

滋賀県

彦根城跡

所在地:滋賀県彦根市金亀町1-1
別名:金亀城
築城年: 1622年(元和8年)
築城主: 井伊直継
廃城年: 1874年(明治7年)
主な城主:井伊氏
遺構:現存天守、 櫓、門、塀、馬屋
石垣、土塁、堀
再建造物:御殿、石碑、案内板
指定文化財:国宝(天守等2棟)
重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
特別史跡(彦根城跡)
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:二の丸駐車場など 
日本100名城スタンプ設置場所:開国記念館(彦根城域内)



♢歴史
井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、三成の居城であったことを嫌い、琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。1606年(慶長11年)天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により御殿が建造され、1622年(元和8年)彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。

明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし老朽化していたため、結局民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果天守や櫓の保存が決定し、さらに陸軍省管轄の施設から皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された。『日本城郭大系11参照』

■二の丸佐和口多門櫓

■二の丸佐和口多門櫓

■馬屋
馬屋は、二の丸佐和口多門櫓のすぐ北側に位置するL字形をした建物で、北側に潜戸をつけた門があり、内部には、21もの馬立場・馬繋場が設けられ、東端には馬を管理する小部屋が付けられています。屋根は、柿葺(こけらぶき)で、壁は、上を大壁とし下を簓子下見板張(ささらこしたみいたばり)となっています。この馬屋には、常時藩主の馬十数頭がつながれていました。建立年代は明らかではありませんが、元禄年代(1688〜1703)頃と考えられています。この馬屋は、全国の近世城郭内に残る大規模なものとして、他に例がなく昭和38年7月1日に重要文化財に指定されています。
『現地説明板より』







■表門橋
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■内堀

■内堀

■登り石垣

■登り石垣説明板

■表門


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■天秤櫓
天秤櫓が築かれたのは、築城開始から数年後のことで、彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』によれば、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記されています。
そして昭和30年代に行われた解体修理では、この櫓が移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されています。







■天秤櫓

■天秤櫓





■鐘の丸

■鐘の丸
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■鐘の丸説明板




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■時報鐘
天守へ向かう石段の途中にある「時報鐘」は、江戸時代から絶えることなく、朝から3時間おきに、6時、9時、12時、15時および18時の1日に5回、城下に鳴り響く。
築城当初は、鐘の丸に設置され、城下に時を知らせていたようだが、より遠くまで音色が届くように太鼓門近くの高台に移されたと伝える。江戸時代の絵図には「鐘突所」と記されている。

■太鼓門櫓及び続櫓

■太鼓門櫓及び続櫓

■太鼓門櫓及び続櫓裏側

■本丸と天守

■本丸

■着見台(着見櫓跡)
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■着見台(着見櫓跡)説明板

■着見台(着見櫓跡)からの風景







■城内の門扉


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■太鼓門櫓

■天守

■天守

■天守

■西の丸

■西の丸三重櫓
西の丸三重櫓は本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓をくの字に付設しています。



■西の丸三重櫓石垣と大堀切
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■西の丸三重櫓石垣と大堀切

■出郭

■超小型電気自動車コムス ひこにゃん号



■黒門橋
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■内堀

■楽々園
国の名勝、井伊直興によって建てられた彦根藩の下屋敷

■槻御殿

■茶座敷(地震の間)





■井伊大老像

■家老木俣屋敷跡

■二の丸佐和口多門櫓

■二の丸佐和口多門櫓

■二の丸佐和口多門櫓説明板

■中堀


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■埋木舎
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年(1759年)頃と見られる。 井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの、天保2年(1831年)以後15年を過ごした屋敷として有名で、「埋木舎」は直弼の命名である。本来は「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」の名で呼ばれていた。

■今回はひこにゃんには出会えませんでしたが、以前に見た際の画像がありますので少し載せておきます。





♢彦根城跡へのアクセス

佐和山城跡

所在地:滋賀県彦根市古沢町
別名:なし
築城年:鎌倉時代
築城主: 伝・佐保時綱
廃城年: 慶長11年(1606年)
主な城主:佐保氏、小川氏、磯野氏
丹羽氏、石田氏、井伊氏
遺構:石垣、土塁、堀、曲輪、ほか
再建造物:石碑、案内板
指定文化財:なし
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:佐和山城無料駐車場

♢歴史
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190年~1198年)の文書にその名が見える。応仁の乱の後、六角氏家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。しかし戦国時代後半に入ると、六角氏勢力は衰退、それにともない浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。元亀年間(1570年~1573年)には城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに石田三成が入城したとされる。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)。

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ入城した。領民達の前領主への思慕を断ち切ることが出来ないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。



■佐和山会館前にある天守模型

■天守模型説明板

■駐車場にある看板

■龍潭寺入り口

■龍潭寺からの登城口

■龍潭寺門内にある大久保忠隣公幽居之址

■佐和山観音像

■龍潭寺門内に建つ石田三成像

■龍潭寺山門

■野猿に注意

■本丸まであと600m地点

■西の丸(塩硝櫓跡)

■西の丸(塩硝櫓跡)

■西の丸(塩櫓跡)説明板

■西の丸(塩櫓跡)

■西の丸





■西の丸説明板



■本丸

■本丸から見える彦根城



■佐和山城跡石碑

■本丸説明板

■土塁



■千貫井

■千貫井と石垣説明板

■本丸の石垣隅石

■竪堀

■二の丸、三の丸に行こうと思いましたが、道が分からず断念しました。同じく法華丸、太鼓丸も未訪問です。

♢佐和山城跡へのアクセス

石田三成屋敷跡

所在地:滋賀県彦根市古沢町978-5
別名:なし
築城年:不明
築城主: 石田氏
廃城年: 不明
主な城主:石田氏
遺構:なし
再建造物:石碑
指定文化財:なし
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:なし

♢歴史
佐和山の麓に、石田三成屋敷跡の石碑があります。ちなみに、現在の清凉寺があるところが、石田三成の家臣「嶋左近」の屋敷があったところと云われています。



■少し階段を下りてみた。






♢石田三成屋敷跡へのアクセス

朝妻城跡

所在地:滋賀県米原市朝妻筑摩(中島神社)
別名:中島城
築城年:不明
築城主: 新庄氏
廃城年: 天正11年 (1583年)
主な城主:新庄氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:なし

♢歴史
朝妻城跡は別名中島城と呼ばれ、米原町朝妻筑摩に所在する中世平城跡である。
城跡は中島神社の鎮座する小字向蔵、付近一帯で、浜街道を押え、要港朝妻港に面した、水陸両交通路の要衝の地であった。
朝妻城、自体に関する文献は皆無であり、その築城始年代、築城者などは不明である。しかし軍事的要衝の地であることより、応仁文明乱時には、すでに城が築かれていたと思われる。
天文年間 (1532年~1554年)には、新庄蔵人直昌が修築して、以後居城としていたことが伝わってます。「重修諸家譜」によると、新庄氏は、藤原氏秀郷流と称し、俊名の時に、住してより新庄氏を称したとある。俊名より8代、蔵人直昌のときに近江国坂田郡朝妻に城を構えて住すとあり,この時より新庄氏の居城となったのであろう。直昌の子直頼も朝妻城に居したが、後に羽柴秀吉に仕え、天正11年 (1583年)摂津山崎城 へ三万石をもって移封された。これに伴い朝妻城は廃城 となったものと思われる。「近江國坂田郡志」に よると、城主直頼のとき,六角定頼の軍に攻められ落城 し、一時六角方の属城 となった。 しかし浅井長政が六角氏を破り、直頼が再び朝妻城にもどったとある。なお新庄氏はその後常陸国麻生藩主 として明治まで存続し、直頼までの墓は近江町寺倉の総寧寺にある。『滋賀県教育委員会 発掘調査報告書より引用』 『日本城郭大系11』

■中嶋神社



■朝妻城説明板






♢朝妻城跡へのアクセス
立ち寄らなかったのですが、近くに朝妻湊跡があります。興味ある方は行って見て下さい。

鎌刃城跡

所在地:滋賀県米原市番場
別名:なし
築城年:応仁の乱以前
築城主: 土肥三郎元頼
廃城年: 天正3年(1575年)
主な城主:土肥氏、堀氏、浅井氏
遺構:曲輪、堀切、石垣、枡形虎口、水の手、竪堀
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:鎌刃城跡駐車場

続日本100名城:No157
スタンプ設置場所
Cafe&Gallery「源右衛門」案内パンフレットボックス

♢歴史
鎌刃城跡は、米原町の東部の標高384mを頂点とする山稜に所在する中世の山城跡である。
城跡が位置する山稜は、京極領と六角領の境に位置し、この周辺には佐和山城・菖蒲嶽城・太尾山城・磯山城などが所在し、こうした城跡は境目の城として機能した。鎌刃城の築城年代は明らかではないが、『今井軍記』には文明4年(1472)の京極家の家臣による鎌刃城攻めの記事があることから、応仁の乱の時期には築城されていたものと考えられている。また、天文期には近江守護六角氏による鎌刃城在城の京極家家臣であった堀氏攻めが行われている。堀氏は、この時期六角氏側についたり、浅井氏側に属するようになったりしたが、元亀元年(1570)に織田信長に内応して、浅井氏に対抗するようになる。天正2年(1574)、堀氏は信長により改易され、城内に備蓄されていた米穀二千俵が徳川家康に与えられたことが記録に見え、この後鎌刃城は廃城となったものと思われる。
城跡の遺構の分布する範囲は、東西約400m、南北約500mを測り、江北地方では浅井氏の居城小谷城跡に次ぐ規模である。主郭を中心に北方尾根上に7箇所、南方尾根上に2箇所、西方尾根上に8箇所の曲輪を設け、主郭を含む一部の曲輪は周囲を石灰岩の石積みで構築している。また、尾根の先端はすべて堀切で防備され、西方尾根には連続竪堀群が見られる。
「蓮華寺」には築城主と伝わる土肥三郎元頼公のお墓があるそうです。
土肥三郎元頼公は正応元年(1288)に逝去したと伝わっている。

■番場城跡から戻って鎌刃城跡へ向かいます

■鎌刃城大手口

■登城途中にクマ除けの鐘がありますが壊れていて鳴らせません。

■北副部虎口の方へ向かいました。(大堀切は未訪問)





■北ーⅥ曲輪跡
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■曲輪説明板

■北ーⅥ大櫓跡

■北‐Ⅴ曲輪虎口


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■枡形虎口説明板

■水の手

■水の手説明板

■水の手下石垣

■石垣

■北ーⅤ曲輪
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■クマ除けの鐘(叩く棒が無かった。)

■大石垣



■北ーⅣ2郭

■北ーⅣ2郭

■北ーⅣ1郭

■北ーⅢ郭

■北ーⅡ郭

■北ーⅠ郭

■主郭虎口下

■主郭虎口下

■主郭

■主郭虎口

■主郭説明板
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■南Ⅱ郭土塁

■南Ⅱ郭

■南Ⅱ郭土塁

■南Ⅰ郭

■南Ⅰ郭

■大堀切

■大堀切

■南Ⅱ郭



■南Ⅱ郭と土塁

■鎌刃城跡の見どころ

■西郭に向かいます。(非常に急斜面ですのでかなり危険です。もし行かれるのであれば登山靴と軍手必須です。)

■堀切

■ここから西郭へ
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■西ー1郭(西Ⅱ郭へ降りる際は本当に気を付けて下さい。)



■西ー2郭



■堀切

■西ー3郭
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■堀切

■西ー4郭

■西ー5郭

■西ー6郭

■西ー7郭

■竪堀

■西ー8郭

■畝状竪堀群
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来た道を、戻るのはすごく大変そうなので、このまま下山することにしました。なので、先に最初に北の大堀切を見て北副部に行くのが良いかと思います。
■鎌刃城御城印


♢鎌刃城跡へのアクセス

番場城跡

所在地:滋賀県米原市番場
別名:殿屋敷城
築城年:鎌倉時代
築城主: 土肥三郎元頼
廃城年: 元亀5年(1574年)
主な城主:土肥氏
遺構:郭,堀
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:鎌刀城跡無料駐車場

♢歴史
鎌刃城の出城と考えられます。築城年代は不明です。 城主は、鎌倉時代箕浦庄の地頭を務めた土肥三郎元頼と云われており、麓には土肥氏の屋敷跡と思われる「殿屋敷」があります。城主だった元頼は、正応元年(1288)に逝去したと伝わっていますので、それ以前にはあったと考えられます。蓮華寺(未訪問)には、土肥三郎元頼の墓と伝えられている宝篋印塔があります。

■鎌刃城跡案内板





■Cafe&Gallery「源右衛門」

■番場資料館

■ここの路地から城跡に向かいます。

■土肥氏殿屋敷跡?(場所が違っているかもです)



■防獣柵を開けて中に入ります

■右の番場城跡へ(左側に行くと鎌刃城跡)



■竪堀状の道をしばらく登ると道標が見えます。

■削平地

■みちなりに歩きます。

■高圧鉄塔が見えてきました。

■頂上の削平地

■主郭
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■堀切

■堀切



■主郭からの風景


♢番場城跡へのアクセス

敏満寺城跡

所在地:滋賀県犬上郡多賀町敏満寺(多賀SA)
別名:なし
築城年: 15世紀(室町時代)頃
築城主: 不明
廃城年: 不明
主な城主:天台宗・久徳氏
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2021年7月21日(水)晴
駐車場:多賀SA上り駐車場

♢歴史
この多賀SAのある敏満寺上陵から胡宮神社の鎮座する青龍山にかけては、かつて大伽藍を配していた敏満寺跡です。
敏満寺は、九世紀から十世紀初頭ごろに、伊吹山寺の開基にたずさわった三修上人の弟子敏満童子の開基にかかる天台密教寺院であると考えられています。
以後、敏満寺は、天皇や皇族の崇敬を受け隆盛していきました。鎌倉時代に記された「一山目録」には、現在の胡宮神社付近を本堂とし、40余りの塔堂が立ち並んでいたことが書かれています。
室町時代に湖東の一大寺院と化した敏満寺は、その勢力ゆえに守護大名佐々木氏や京極氏とたびたび対立するようになります。応仁の乱以降は山門の一翼をにない、ことあれば僧兵を動員することになり、寺は要塞化した軍事拠点となっていきました。
そして戦国時代、永禄五年(1562)に浅井長政の攻撃をうけた久徳氏に味方したため長政に攻められ、当時130以上あったという坊舎はほとんど炎上焼失してしまいました。さらに、元亀三年(1572)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の途をたどっていったのです。慶長年間(17世紀初頭)には残った礎石も彦根城普請のため運び去られました。
造園部一帯は、昭和六十一年五月~昭和六十二年三月まで発掘調査が行われ、調査の結果、十五世紀末から十六世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空掘から、要塞化した寺院遺構と考えられ、建物、門、井戸等の跡及び土器類も出土しています。
『敏満寺城跡案内板』より

■敏満寺城跡案内板





■曲輪跡

■土塁跡

■櫓台

■櫓台

■曲輪跡

■堀跡




敏満寺城跡へのアクセス
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