なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

東大阪市

徳庵城跡

所在地:大阪府東大阪市稲田新町2丁目31
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:井賀和泉守源義昭
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年6月19日(日)晴
駐車場:なし

【歴史】
徳庵城の築城年等に関する詳細は分かりませんが、少し離れた諸口八幡神社の由緒に、建武年間(1334年〜1338年)には、楠木正成の家来、井賀和泉守源義明が在城していたとあります。


■徳庵城跡(推定値)

■徳庵城跡(推定値)

■諸口八幡神社(大阪市鶴見区諸口2-4-41)
八幡神社(旧南北神社 大阪府全誌)は、誉田別命を祀れり。延久4年3月15日(1069年)誉田八幡宮の分霊を勧請せしもの、当社の起源なり。後、建武年間 楠正成の家来に井賀和泉守源義明なるもの徳庵城に拠りて当社を祈願所と定め五拾石を寄付せり。爾来幾多の変遷を経たるも明治5年八幡神社と改称す。『諸口八幡神社御由緒より』





♢徳庵城跡へのアクセス

若江城跡

所在地:大阪府東大阪市若江北町3丁目
別名:なし
築城年:永徳2年〔南朝〕/弘和2年〔北朝〕(1382年)
築城主:畠山基国
廃城年:不明
主な城主:畠山氏、遊佐氏、三好氏、池田氏
遺構:土塁跡、井戸跡
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年6月19日(日)晴
駐車場:若江公民分館

【歴史】
若江城は、南北朝時代の争乱期(14世紀末)に、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取締りのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳2年(1382)から天正元年(1573)までの約二世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たしました。 畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就の義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永録11年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主としました。 城は、石山本願寺攻撃の拠点として使われましたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになりました。 若江城の跡は、昭和47年以来の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民分館を中心として、周辺から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や、瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。
(東大阪市若江公民分館案内板より)

■若江城説明板








♢若江城跡へのアクセス

池島城跡

所在地:大阪府東大阪市豊浦町5(枚岡中央公園)
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年6月19日(日)晴
駐車場:なし

【歴史】
池島は昔、池の島と呼ばれて池の中に浮かぶ島のようだった。今でも集落は周辺より高くなっている。池島では池島城といわれる城があり、城にちなむ地名、大門、城内などが残っている。城といっても、天守閣を備えたものでなく平城で集落の廻りは壕を巡らせており、今も溝として残っている。

■池島神社(このあたり一帯が城跡)
Z5V_1313

■池島神社社殿



■壕

■壕

■壕


♢池島城跡へのアクセス

往生院城跡

所在地: 大阪府東大阪市六万寺町1丁目22-36(往生院)
別名:なし
創建年:伝・天平17年(745年)
開山: 伝・行基
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年6月19日(日)晴
駐車場:なし


【歴史】
寺伝によると、大和桜井寺の跡地に、聖武天皇の勅願によって行基が天平17年(745年)に薬師如来を本尊とする寺院・六萬寺を創建したと伝えられる。
南北朝時代、まだ幼少だった楠木正行が往生院で武芸を学んでいる。正平3年(1348年)四條畷の戦いにおいて南朝方の武将となっていたその楠木正行がここに本陣を置いたため、戦いに巻き込まれて焼失した。


 hspace=






♢往生院城跡へのアクセス

中村代官屋敷跡

所在地:大阪府東大阪市豊浦町5(枚岡中央公園)
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:中村氏
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2022年6月19日(日)晴
駐車場:なし

【歴史】
中村氏は佐々木源氏の流れをくみ、もとは近江の国鯰江城に住んで鯰江氏と呼ばれていました。室町時代後半に唯正という人が、河内国豊浦村に移り住み、中村の姓を名のるようになりました。大坂冬の陣(1614)、同夏の陣(1615)のとき、中村正教は徳川家康の大坂城攻めの本陣として、家康に館を提供しました。「御宿陣由緒書」には、夏の陣のとき宿陣は折から5月5日の菖蒲の節句であったため、正教はそれにちなんで「菖蒲木綿」として家康に献上し”勝布”として家康を喜ばせたということが記されています。豊浦村は天領であったため、中村氏は”中村代官”と呼ばれ、以後豊浦村の庄屋として力をもちました。また、文化面にも優れた人材を輩出し、江戸時代末期に歌人の中村四端、俳人の中村來耜がでています。中村氏の屋敷には、現在の平岡中央公園から北側の敷地一帯にありましたが、今では西側の周濠の一部を残すだけです。なお、西方150mのところには、権現塚の碑とともに、中村氏の由緒を刻んだ碑が昭和7年に建てられています。






■徳川家康本陣跡碑

■中村四郎右衛門宅趾碑





♢中村代官屋敷跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

※写真及び記事内容などの無断転載を禁止します。

※相互リンク募集中です。リンクはフリーです。

※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。

※掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: