なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

山口県

勝山御殿跡

♢城郭情報
所在地:山口県下関市田倉
別名:なし
築城主:毛利元周
築城年:文久3年(1864年)
廃城年:明治7年(1874年)
主な城主:長府毛利氏
遺構:石垣
再建造物:なし
指定文化財:国の史跡「勝山御殿跡」
訪城日:2023年5月1日(月)晴
駐車場:勝山御殿駐車場

【歴史】
文久3年(1863年)長州藩が攘夷を決行し、関門海峡の外国船に砲撃を開始。長府藩主・毛利元周は、外国船の報復攻撃に備えて、海岸に近い串崎城麓の藩邸を離れ、覚苑寺に仮住まいします。そして、わずか5か月で急造した藩邸が勝山御殿です。元治元年(1864年)2月に入城し、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁(廃藩置県後は豊浦県庁)とされた後、明治六年(1873年)に解体された。解体の際、建材の一部は移築され、長府の覚苑寺の庫裏・客殿となった。


Z5V_3003

◇本丸表

◇勝山御殿の説明板

◇本丸裏



◇勝山地区公園案内図


Z5V_3009




Z5V_3011




♢勝山御殿跡へのアクセス

萩城跡

♢城郭情報
所在地:山口県萩市堀内字旧城1-1
別名:指月城
築城主:毛利輝元
築城年:慶長9年(1604年)
廃城年:明治7年(1874年)
主な城主:毛利氏
遺構:長屋、石垣、堀
再建造物:北の総門・土塀・土橋
指定文化財:国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)、国指定史跡
訪城日:2023年5月1日(月)晴
駐車場:指月第一駐車場
日本100名城:75番
スタンプ設置場所:本丸入口料金所
御城印販売場所:萩城跡指月公園料金所

※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真で見ることができる。
『萩城Wikiより抜粋』



◇毛利輝元公像

◇毛利輝元公像の説明板

◇二の丸南門の石垣
Z5V_2941

◇塩矢倉跡

◇水堀

◇天守台 〔左端〕 と指月山



◇二の丸東門跡(右側に東矢倉跡)

◇時打矢倉跡



◇華矢倉跡

◇二の丸東側の潮入門跡と銃眼土塀(復元)

◇紙矢倉跡

◇二の丸銃眼土塀
12基の櫓、34の井戸、蔵元役所、寺社、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園などがあった。南側と東側にそれぞれ内枡形虎口城門があり、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、東門は外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて2つの櫓(三重の東櫓・二重の時打櫓)が設けられていた。また、菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門があった。



◇潮入門跡



◇北矢倉跡







◇志都岐山神社鳥居

◇明倫館遺構 万歳橋

◇志都岐山神社
毛利元就、毛利隆元、毛利輝元、毛利敬親、毛利元徳の五柱を祭神として、初代から12代まで萩藩の歴代藩主を祀っている。明治11年(1878年)、豊榮神社・野田神社より分社する形で、志都岐山神社が建てられることになった。

◇御台所門跡

◇東園

◇東園茶室跡



◇萩城天守閣跡

◇萩城天守閣跡の説明板

◇天守閣跡
Z5V_2988

◇天守からの眺め


Z5V_2989

◇梨羽家茶室跡

◇梨羽家茶室跡の説明板





◇外堀

◇北の総門

◇北の総門


※指月山の山頂に設けられた詰めの城は未訪問

♢萩城跡へのアクセス

陶氏館跡

♢城郭情報
所在地:山口県山口市陶3907番地(正護寺)
別名:なし
築城主:陶弘賢
築城年:延文年中(1356~60年)頃
廃城年:不明
主な城主:陶弘賢、陶弘政
遺構:土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月1日(月)晴
駐車場:正護寺駐車場

【歴史】
陶氏の館は、陶氏初代弘賢と2代弘政の居城で、その場所は現在の正護寺及びその前面に広がる台地一帯である。『防長風土注進案』によると、「築地、外門、馬屋の段、御茶屋の檀、乗馬馬場、勘定場、諸氏屋敷、大門」の地名をあげ、「弘賢・弘政の旧跡なるべし」と書いている。その遺構として、正護寺の南東から北にかけて土塁跡が残っており、当時の館の広大さをとどめている。なお、陶氏は、大内氏の分流、右田氏の子孫が陶の地を根拠地とし、「陶氏」を名乗ったといわれている。





◇左が陶晴賢の分骨塔

◇正護寺

◇正護寺




Z5V_2930





◇山門は小郡代官所の移築門


♢陶氏館跡へのアクセス

山口城跡

♢城郭情報
所在地:山口県山口市滝町1−1
別名:山口屋形、山口政庁、山口政事堂
築城主:毛利敬親
築城年:元治元年(1864年)
廃城年:明治6年(1873年)
主な城主:毛利氏
遺構:水堀、表門
再建造物:なし
指定文化財:旧山口藩庁門(山口県指定有形文化財)
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:山口県庁外来3駐車場

【歴史】
本拠地を萩城から山口に移すことにし、大内氏が築城した高嶺城跡のある山口の一露山麓に、元治元年(1864年)13代毛利敬親の居城として築かれました。しかし、同年に生じた第一次長州征討で、幕府側の撤兵の条件として山口城の破却が提示された。これに恭順した長州藩は、城の一部を破却して一旦は萩城へ戻ったものの、慶応元年(1865年)4月に再び山口へと移住し。同年の第二次長州征討では、政治・軍事の拠点として機能している。廃藩置県が行われた明治4年(1871年)には、城内に山口県庁が置かれた。明治6年(1873年)の廃城令によって7月に大蔵省の所管へ変更され廃城となった。

◇旧山口藩庁門(山口城表門)

◇説明板







◇山口県庁


♢山口城跡へのアクセス

大内氏館跡

♢城郭情報
所在地:山口県山口市大殿大路117−61
別名:なし
築城主:大内弘世
築城年:延文5年(1360年)
廃城年:弘治3年(1557年)頃
主な城主:大内氏
遺構:土塁、曲輪、横堀
再建造物:西門、庭園、空堀、土塁、説明板、石碑
指定文化財:国指定史跡(大内氏遺跡)
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:史跡大内氏遺跡 見学者用駐車場

【歴史】
大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館で、京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。正確な建築時期は不明であり、発掘調査によると1400年代半ば第13代大内教弘の建築である可能性が高いとされる。大寧寺の変の後は、大内義長が大内氏館に入った。弘治2年(1556年)に毛利元就が侵攻(防長経略)してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡。大内氏館もその役目を終えることとなった。そして翌年、同地に毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立している。

◇土塁



◇大内義興公「馬上展望」像

◇大内義興公「馬上展望」像の説明板

◇龍福寺本堂
Z5V_2896

◇龍福寺本堂由緒

◇大内義隆卿主従之供養塔



◇大内氏館跡説明板

◇復元土塁と空堀跡

◇復元された池泉庭園

◇池泉庭園の説明板

◇石組井戸
Z5V_2903

◇石組井戸の説明板
Z5V_2904

◇塼列建物跡

◇塼列建物跡の説明板

◇石組かまど

◇石組かまど説明板

◇西門

◇西門説明板

◇枯山水庭園

◇枯山水庭園説明板

◇土塁

◇土塁


♢大内氏館跡へのアクセス

築山跡【大内氏遺跡】

♢城郭情報
所在地:山口県山口市上竪小路100
別名:築山館、築山御殿
築城主:大内教弘
築城年:15世紀中頃
廃城年:弘治3年(1557年)頃
主な城主:大内氏
遺構:土塁
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:国指定史跡(大内氏遺跡)
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:史跡大内氏遺跡 見学者用駐車場

【歴史】
15世紀中ごろ大内教弘(28代)が築いたといわれる大内氏の別邸・築山館の跡で、現在は八坂神社、築山神社の境内になっています。築山館は大内氏館同様に、室町時代の京都の様式を取り入れた居館であったと伝えられています。豪華な庭園があったとされ、江戸時代中期までその池の跡が残されていたようです。残念ながらその後、土塁を崩した土で池を埋めてしまったと伝えられています。築山館を囲んでいたと思われる土塁は一部が残っており、当時の居館の規模を今に伝えています。

◇八坂神社 大鳥居





◇築山跡説明板

◇築山跡平面図
Z5V_2870

◇築山神社

◇築山神社説明板

◇築山館跡土塁

◇盃状石が刻まれた巨石

◇盃状石が刻まれた巨石の説明板

◇八坂神社本殿

◇八坂神社本殿の説明板

◇築山館跡土塁

◇市川少輔七郎墓
毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡男。豊後の大友宗麟と大内家再興を企てるが露呈して、天正六年(一五七八)、毛利氏配下により討たれる。墓石はもと築山神社北側の土塁上にあったが、周辺整備に伴い、平成三十年この場所に移設された。 

◇築山跡南東部

◇築山跡南東部の説明板

◇建物跡

◇東堀跡
Z5V_2889

◇東堀跡の説明板



♢築山跡へのアクセス

若山城跡

♢城郭情報
所在地:山口県周南市夜市、福川
別名:富田若山城、周防若山城
築城主:陶弘護
築城年:文明2年(1470年)頃
廃城年:弘治3年(1557年)頃
主な城主:陶興房、陶隆房、
遺構:曲輪、石垣、堀切
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:若山城跡駐車場

【歴史】
若山城は、中世大内氏の重臣であった陶弘護が文明2年(1470年)に築城したものと考えられていますが、14世紀中頃、陶弘政が大内氏庶流の鷲頭氏への対抗として築城したとの説もあり、はっきりしていません。天文19年(1550年)に主君大内義隆と対立した陶隆房(陶晴賢)が、謀叛に備え城の修築を行った。翌年、陶隆房が若山城にて謀反し大内義隆を自害に追い込んだのち大友晴英を豊後国から迎え大内義長として擁立、自身は晴賢と名を改め大内氏の実権を握った。弘治元年(1555年)の厳島の戦いで、弘護の孫にあたる晴賢が毛利元就に敗れた直後、杉重輔に攻められ落城しました。城は、若山山頂(標高217メートル)の本丸を中心として、東側に伸びる尾根に二の丸と三の丸、西側に伸びる尾根には西の丸と蔵屋敷が配されていた。

◇登城口



◇二の丸・三の丸跡



◇風景



◇若山城跡駐車場

◇若山城跡見取り図



◇主郭にある若山城跡説明板





◇若山城跡石碑

◇主郭

◇堀切

◇堀切

◇武将道

◇曲輪

◇西の丸石垣

◇西の丸跡

◇西の丸跡

◇蔵屋敷跡

◇景色


♢若山城跡へのアクセス

陶氏居館跡

♢城郭情報
所在地:山口県周南市下上1560(冨岡公園)
別名:平城
築城主:陶弘政
築城年:室町時代
廃城年:不明
主な城主:陶氏
遺構:なし
再建造物:説明板、石碑
指定文化財:なし
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:菊川市民センター富岡分館

【歴史】
築城年は明らかではないが、室町時代に陶弘政によって築かれた。陶氏は大内氏の一族で平安時代末期に大内盛長が右田氏となり、子孫の弘賢が吉敷郡陶村(現・山口市)に居住して陶氏を称したのが始まりです。陶弘賢の子・陶弘政は、大内弘世が鷲頭貞弘との戦いに備え、陶一族を都濃郡富田保(現・周南市)を移したとされ、そこに居館として平城を築いた。さらに弘政は、平城よりも南に位置している勝栄寺に土塁・堀を構築し、海側の守りを固める城郭寺院としたほか、七尾山城、上野山城、別所城などの城砦を設けた。近くには、陶弘政を開基とする勝栄寺があります。


Z5V_2827


Z5V_2828


Z5V_2829

◆陶氏居館跡説明板
Z5V_2835

◆石碑
Z5V_2836


♢陶氏居館跡へのアクセス

徳山藩館邸跡

♢城郭情報
所在地:山口県周南市徳山公園区
別名:徳山城、徳山陣屋、徳山館
築城主:毛利就隆
築城年:元和3年(1617年)
廃城年: 明治4年(1871年)
主な城主:毛利氏
遺構:庭園
再建造物:説明板
指定文化財:なし
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:文化会館駐車場

【歴史】
徳山藩は、元和三年(1617年)毛利輝元の次男就隆が、兄秀就から周防国都濃郡において三万石の地を分知されたことに始まります。就隆は、初め館邸を下松(御屋敷山そば法蓮寺付近の「古御屋敷台」)に設けましたが、慶安元年(1648年)に海陸四通八達の交通の要所である野上村の立地に着目してここに移転し、同三年、野上を改めて徳山と称しました。その後徳山藩は、藩の改易(万役山事件)・再興を経て、明治四年(1871年)藩を廃止し山口藩に合併するまで、九代二百五十四年にわたり城下町として繁栄を続けました。徳山藩は、国持ちや城持ちの大名と異なり館邸には堀や壕もなく「御館」といったが、天保七年(1836年)に幕府から念願の「城主格」(四万十石)を許可され、それ以来、館邸を「御城」と呼びました。徳山市(周南市)文化会館は、この由緒ある地に建築したものです。『現地説明板より』



◆陣屋跡説明板



◆庭園

◆庭園
Z5V_2826

◆祐綏神社




♢徳山藩館邸跡へのアクセス

岩国城跡

♢城郭情報
所在地:山口県岩国市横山
別名:横山城
築城主:吉川広家
築城年: 慶長6年(1601年)
廃城年:元和元年(1615年)
主な城主:吉川氏
遺構: 隠居所長屋、石垣、水堀、空堀
再建造物:天守、旧天守台(発掘復元)、石碑
指定文化財:なし
訪城日:2023年4月30日(日)晴
駐車場:岩国城ロープウェー駐車場
日本100名城:74番
スタンプ設置場所:岩国城天守閣1階受付

※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、吉川広家も同時に米子城から岩国に3万石で封じられた。慶長6年(1601年)に、吉川広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重階の唐造りの天守が建造された。しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。

◆岩国城ロープウェー乗り場

◆右上に御土居跡の吉香公園(未訪問)

◆山頂駅
Z5V_2815

◆交流広場
Z5V_2814

◆二の丸石垣

◆二の丸石垣

◆二の丸石垣

◆二の丸石垣

◆城山案内図

◆二の丸虎口

◆二の丸

◆二の丸

◆冠木門



◆天守

◆天守
Z5V_2797

◆天守台

◆北矢倉跡

◆空堀

◆空堀説明板

◆北の丸

◆空堀

◆北の丸下







◆中央付近に錦帯橋

◆東矢倉跡



◆大釣井


♢岩国城跡へのアクセス

なんとなく城跡巡り2へようこそ!

※写真及び記事内容などの無断転載を禁止します。

※相互リンク募集中です。リンクはフリーです。

※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。

※掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: