なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

福岡県

久留米城跡

♢城郭情報
所在地:福岡県久留米市篠山町444
別名:笹原城、篠山城、篠原城、久留目城、来目城、雨城
築城主:不明
築城年:1504年 ~1521年(永正年間)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:毛利氏、田中氏、摂津有馬氏
遺構:石垣、堀
再建造物:なし
指定文化財:福岡県文化財
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:有馬記念館篠山神社駐車場
続日本100名城:183番
スタンプ設置場所:篠山神社社務所
御城印販売場所:御城印は無し(篠山神社の御朱印はあり)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
室町時代後期の永正年間(1504年 ~1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。天文年間(1532年 ~1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。 1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州を平定すると、13万石で筑後久留米に封じられた毛利秀包(小早川秀包)篠原城の堀を掘削し石垣を積み天守を置くなど、大改築を行った。秀包は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後改易となった。戦後は久留米城は柳川城の支城とし田中吉政二男の吉信を城主とした。1615年(慶長20年)に出された一国一城令により廃城となる。元和6年(1620年)吉政の子、忠政は嗣子なく没し、筑後柳川藩田中氏は改易となった。かわって1621年(元和7年)、有馬豊氏が。大幅に加増され封じられた。豊氏は、廃城も同然にまで荒れ果てた久留米城を黒田長政の助力も得ながら、大規模に拡張した。以後、明治維新まで久留米城は有馬氏の居城となった。1871年(明治4年)の廃藩置県により久留米城は廃城となった。現在は本丸に有馬記念館と篠山神社が建てられ、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となっている。

◇蜜柑丸跡
本丸東側にあった腰郭。蜜柑の木が植えられていたことから「蜜柑丸」と呼ばれていた。

◇蜜柑丸から望む巽櫓の石垣

◇堀

◇大手口


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◇冠木御門跡

◇久留米城説明板



◇太鼓櫓跡
本丸南に上げられていた三重櫓。冠木御門の西にあった。現在は櫓台石垣が残っている。



◇本丸御殿に建つ篠山神社本殿

◇乾櫓跡
本丸北西(戌亥の方角)に上げられていた三重櫓。
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◇景観

◇艮櫓跡
本丸北東(丑寅の方角)に上げられていた三重櫓。現在は石垣が現存している

◇艮櫓跡石垣

◇月見櫓跡

◇本丸御殿跡

◇本丸御殿跡

◇巽櫓跡

◇篠山神社のご祭神




♢久留米城跡へのアクセス

福岡城

♢城郭情報
所在地:福岡県福岡市中央区城内
別名:舞鶴城、石城
築城主:黒田長政
築城年:1601年(慶長6年)
廃城年:1873年(明治6年)
主な城主:黒田氏
遺構:曲輪、櫓4棟、門3棟、石垣、天守台、横堀(水堀)
再建造物:二の丸北隅櫓、大手門、石碑、説明板
指定文化財:国の重要文化財(多聞櫓)、福岡県文化財(潮見櫓・下之橋御門・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門)、福岡市文化財(名島門)
訪城日:2023年5月2日(火)晴
駐車場:園内駐車場141台(有料)
日本100名城:85番
スタンプ設置場所:①福岡城むかし探訪館②三の丸スクエア ③鴻臚館跡展示館
御城印販売場所:福岡城むかし探訪館、三の丸スクエア内「舞遊の館」

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

◇【公式】福岡城・鴻臚館HP


【歴史】
1600年(慶長5年) 黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封した。筑前の旧領主小早川秀秋の居城であった名島城に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。1601年(慶長6年)には築城が開始され、7年後の1607年(慶長12年)に竣工した。江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に、11代藩主、黒田長溥により大改修が行われた。1873年(明治6年)廃城令発布により存城処分となる。

◇堀

◇堀

◇下之橋御門

◇下之橋御門

◇下之橋御門説明板

◇(伝)潮見櫓

◇(伝)潮見櫓説明板

◇黒田如水公隠居地跡(御鷹屋敷跡)





◇名島門

◇名島門

◇名島門説明板

◇三の丸

◇母里太兵衛邸長屋門

◇母里太兵衛邸長屋門説明板

◇松ノ木坂

◇石垣

◇鴻臚館跡

◇侍屋敷跡

◇上之橋御門跡

◇栗山備後屋敷跡

◇東御門跡(右の石垣上に革櫓)

◇烽火番所跡







◇扇坂御門跡

◇扇坂・扇坂御門跡説明板

◇大組櫓跡

◇松原櫓(向櫓)跡

◇二の丸跡
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◇松の木坂
三の丸から西二の丸に登るための坂の1つで、南側の桐の木坂に対して松の木坂と呼ばれています。

◇屏風櫓跡

◇向櫓跡

◇本丸表御門跡
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◇御祈念櫓跡

◇御時櫓跡

◇井戸跡

◇本丸跡

◇鉄御門跡

◇御旗石跡

◇小天守跡

◇小天守跡

◇御武具櫓跡

◇大天守台跡
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◇大天守台跡説明板

◇埋門跡

◇武具櫓跡

◇中天守跡

◇中天守跡

◇月見櫓跡

◇水の手

◇水の手の説明板

◇桐の木坂
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◇水の手御門跡

◇生捕櫓跡

◇多聞櫓
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◇多聞櫓

◇多聞櫓

◇多聞櫓

◇桐木坂御門跡

◇樹木所

◇南二の丸北隅櫓

◇鉄物櫓跡




♢福岡城跡へのアクセス

秋月城跡

♢城郭情報
所在地:福岡県朝倉市秋月野鳥663
別名:秋月陣屋
築城主:黒田長興
築城年:1624年(寛永元年)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:黒田氏
遺構:本門(黒門)、長屋門、石垣、堀
再建造物:石碑、説明板
指定文化財:県指定史跡:城跡
県指定有形文化財:本門(黒門)・長屋門
訪城日:2023年5月2日(火)晴
駐車場:秋月公営駐車場(有料)

【歴史】
1624年(寛永元年)福岡藩主黒田長政の三男、黒田長興が福岡藩2代忠之より夜須・下座・嘉麻の範囲で5万石を分封され、長興は九州征伐以降に廃城となっていた秋月氏宅所を大幅に改修し、陣屋を置く。この城の前身は、秋月を知行地として与えられていた長政の叔父、黒田直之の居館であり、直之の死後10年以上放置されていた。以後、黒田氏12代が明治時代まで治める。1873年(明治6年) 廃城令によって廃城となり一部を残して撤去される。



◇杉の馬場

◇杉の馬場説明板

◇堀と石垣
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◇瓦坂(登城口)
秋月城の正門に至る坂を瓦坂といい、坂には土砂の流れを防ぐため瓦を縦に並べて敷き詰められている。(坂を上って御館正門(大手門、黒門)に至る)

◇陣屋跡にある秋月中学校

◇秋月中学校の敷地となった陣屋跡

◇長屋門

◇長屋門と櫓台

◇堀跡

◇秋月中学校の敷地となった陣屋跡

◇秋月中学校の敷地となった陣屋跡



◇陣屋跡にある秋月中学校

◇土塁

◇秋月城本門(黒門)



◇秋月八幡宮由緒

◇垂裕神社鳥居

◇垂裕神社拝殿

◇垂裕神社由緒書

◇勢留

◇勢留説明板


♢秋月城跡へのアクセス

太宰府政庁跡

♢城郭情報
所在地:福岡県太宰府市観世音寺4丁目6−1
別名:なし
築城主:天智天皇
築城年:7世紀後半
廃城年:不明
主な城主:大和朝廷
遺構:礎石、堀跡、土塁跡等
再建造物:石碑、説明板
指定文化財:国の特別史跡
訪城日:2023年5月2日(火)晴
駐車場:大宰府政庁跡駐車場

【歴史】
大宰府の成立については、様々な学説等がありますが、文献において「大宰」すなわち「大宰府」が登場するのは、『日本書紀』推古17年(609年)の筑紫大宰です。この筑紫大宰は、外国使節の饗応のための施設であり、当初は博多湾沿岸に「那津官家」が置かれていたと考えられています。663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本軍は、唐・新羅連合軍の侵攻を想定し、辺境防備のために、敗戦後直ちに、天智帝は防人の配置など防衛網構築を矢継ぎ早に推し進めるが、この防衛網構築の一環として戦略上脆弱な地にあった「那津官家」を、防御強固な地理的条件が備わったこの太宰府の地を選定し移した。一説には自然地形を巧みに取り入れた「羅城」とも考えられています。この太宰府政庁跡は、発掘調査の結果、創建時を含め三回の建て替えが行われたことが判明している。現在の太宰府政庁跡の礎石等は、三回目のものであることが明らかになっています。




◇蔵司地区官衙

◇蔵司地区官衙説明板

◇太宰府政庁跡入口(南門跡)

◇堀跡



◇太宰府政庁説明板

◇築地跡

◇中門跡

◇回廊跡

◇脇殿跡

◇正殿基壇跡に立てられている石碑

◇正殿跡説明板
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◇東廻廊跡

◇西脇殿跡



◇月山東地区官衙説明板

◇月山東地区官衙


♢太宰府政庁跡へのアクセス

岩屋城

♢城郭情報
所在地:福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町
別名:なし
築城主:高橋鑑種
築城年:1532年 ~1554年(天文年間)
廃城年:1586年(天正14年)
主な城主:高橋氏
遺構:土塁、堀切
再建造物:石碑、説明板
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月2日(火)晴
駐車場:なし

【歴史】
築城は天文年間(1532年 ~1554年)に大友氏の武将・高橋鑑種と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を逐われ、大友家の宿老吉弘鑑理の二男鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」と名乗り宝満・岩屋の両城主となった。天正13年(1585年)、立花城主の立花道雪の死去後、長男統虎が道雪の養子として立花城主となり、次男の統増が高橋家の本城である宝満城に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛に就く。天正14年(1586年)7月13日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が総勢2万にも及ぶ大軍で攻め寄せ、大宰府政庁跡の東隣にある観世音寺に陣を設けた。紹運(高橋鎮種の出家後の名)は七百余名と共に篭城。2週間の間頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦を守備する福田民部少輔も討死するに及んだ。また、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが力尽き、敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。残された将兵もあとを追い玉砕、天正14年7月27日落城。紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓がある。
引用:wikipedia 岩屋城 (筑前国)

◇登城口

◇本丸

◇本丸

◇岩屋城跡石碑

◇高橋紹運の墓


♢岩屋城跡へのアクセス

大野城(筑前国)

♢城郭情報
所在地:福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町
別名:なし
築城主:天智天皇
築城年:665年(天智天皇4年)
廃城年:不明
主な城主:防人司
遺構:土塁・石塁・水門・城門・建物跡・水溜め
再建造物:石碑、説明板
指定文化財:国特別史跡(大野城跡)
訪城日:2023年5月2日(火)晴
駐車場:四王寺焼米ヶ原駐車場
日本100名城:86番
スタンプ設置場所:①福岡県立四王寺県民の森②太宰府市文化ふれあい館③太宰府展示館④大野城心のふるさと館 3階ふるさとラボ カウンター

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410メートルの四王寺山(大城山)に所在する。山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と石塁の外周城壁は、約6.8キロメートルである。そして、南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)防備を固める。城域は東西約1.5キロメートル×南北約3キロメートルの、日本一の大規模な古代山城である。城門は太宰府口城門など9か所が開く。また、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などが確認されている。大野城市の名称はこの大野城に由来する。
引用:wikipedia 大野城 (筑前国)

◇北石垣への階段

◇北石垣



◇百間石垣



◇百間石垣説明板

◇四王寺県民の森にある宇美口城門礎石

◇宇美口城門礎石説明板

◇眺望

◇焼米ヶ原

◇焼米ヶ原

◇太宰府口城門跡

◇中央に城門礎石

◇太宰府口城門跡石垣

◇太宰府口城門跡

◇太宰府口城門跡説明板

◇増長天地区倉庫群

◇増長天地区倉庫群石垣

◇増長天地区倉庫群説明板

◇鏡ヶ池

◇馬責め

◇馬責め説明板



◇大石垣

◇大石垣


♢大野城跡へのアクセス

小倉城跡

♢城郭情報
所在地:福岡県北九州市小倉北区
別名:勝山城、指月城
築城主:毛利勝信
築城年:1569年(永禄12年)
廃城年:1866年(慶応2年)
主な城主:細川氏、 小笠原氏
遺構:石垣、堀、総構(含障子堀)
再建造物:天守、模擬櫓、庭園
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月1日(月)晴
駐車場:和布刈第1展望台
続日本100名城:181番
スタンプ設置場所:小倉城天守閣入口横
御城印販売場所:城テラス(来城記念版)、小倉城受付(登城記念版)

※スタンプ設置場所に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

◇小倉城HP


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◇水堀

◇水堀



◇八坂神社社殿

◇八坂神社由緒

◇北口門跡

◇多門口門跡

◇着見櫓

◇佐々木小次郎(左)と宮本武蔵(右)

◇天守

◇槻門(けやきもん)跡

◇鉄門跡

◇西ノ口門跡

◇井戸跡

◇大手門跡



◇大手先門跡

◇天守

◇中津口門

◇小倉城と中津口門説明板

◇小倉城庭園(未訪問)説明板

◇小倉城虎ノ門口





◇内堀と着見櫓石垣




♢小倉城跡へのアクセス

門司城跡

♢城郭情報
所在地:福岡県北九州市門司区大字門司字古城山
別名:門司関山城、亀城
築城主: 紀井通資
築城年:元暦2年(1185年)
廃城年:元和3年(1617年)
主な城主:門司氏、大内氏、大友氏、毛利氏、細川氏
遺構:石垣、曲輪
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月1日(月)晴
駐車場:和布刈第1展望台

【歴史】
『豊前志』などの記述によれば、1185年(元暦2年)に平知盛が家臣の紀井通資に命じて築いたという。1255年(建長7年)に藤原親房が豊前代官職として入城し、門司氏(もんじし)を名乗るようになった。南北朝時代には当城の門司親尚らが北朝、猿喰城の門司親頼が南朝に付いて門司氏は分裂している。戦国時代には当城をめぐる攻防が続き、1430年(永享2年)に秋月春種と原田信朝が大内氏を攻めて当城を落とした。その後、大内氏の城として存続するも、1551年(天文19年)の大寧寺の変の後、厳島の戦い、防長経略を経て、毛利氏と大友氏の不可侵条約の条件として豊前国は大友領となり、門司城は大友氏の城となった。しかし、毛利氏は1558年(永禄元年)に小早川隆景を大将として門司城を攻撃。城を奪取し、仁保隆慰を城代とした。
1561年(永禄4年)には戸次鑑連、田原親堅、臼杵鑑速ら大友義鎮の軍勢・数万人が門司城を攻めた(門司城の戦い)が、毛利氏はこれを撃退している。この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号し、将軍足利義輝を仲介しての和睦交渉を進め、1564年(永禄7年)7月に尼子氏との戦いが激化た毛利氏との和睦が成立し、門司城は引き続き毛利氏の勢力下となった。
1600年(慶長5年)に細川忠興が豊前国に入ると、城を修築して長岡勘解由を城代におき、1617年(元和3年)に廃城となった。
引用元:Wikipedia「門司城」

♢登城口

◇門司城跡の説明板

◇本丸跡

◇本丸にある砲台の土台

◇本丸からの眺望





◇弾薬倉庫

◇壇ノ浦合戦絵巻

◇源平壇之浦合戦について


壇ノ浦古戦場
◇源義経

◇平知盛

◇日本史の節目を刻む関門海峡

◇源義経像・平知盛像と関門橋

◇長州砲

◇長州砲の説明板



♢門司城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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