なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

佐賀県

吉野ケ里遺跡

♢城郭情報
所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市
別名:なし
築城主:不明
築城年:弥生時代後期
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:貯蔵穴、土坑、横堀(空堀)
再建造物:一部盛土の上遺構を復元し公園化
指定文化財:国指定特別史跡
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:東口駐車場・西口駐車場・北口駐車場(すべて有料)
日本100名城:88番
スタンプ設置場所:吉野ヶ里歴史公園東口
御城印販売場所:なし

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されており、紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5400人くらいの人々が住んでいたと推測される。古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。







◇外濠

◇外濠

◇逆茂木(乱杭)

◇外濠は土塁と柵、逆茂木・乱杭で防衛が図られた
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◇南のムラ集落



◇北の一家







◇兵士の倉
この地域で暮らしている兵士の生活道具を収めています

◇市長の住居
市を収める市長は、この区域で暮らしながら市の管理をします。

◇環濠と土塁

◇環濠と土塁説明板







◇南内郭の門と南内郭

◇南内郭

◇北内郭

◇王の宮殿
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◇北内郭発掘当時の状況

◇最高司祭者の神がかりの様子



◇北墳丘墓・立柱・祠堂・墓道

◇北墳丘墓・立柱・祠堂・墓道説明板

◇中のムラと倉庫群

◇中のムラと倉庫群の説明板
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♢吉野ケ里遺跡へのアクセス

佐賀城跡

♢城郭情報
所在地:佐賀県佐賀市城内2丁目18-1
別名:龍造寺佐賀城、村中城、佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城
築城主:龍造寺氏・鍋島直茂・勝茂
築城年:1602年(慶長7年)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:龍造寺氏・鍋島氏
遺構:鯱の門及び続櫓、移築御座の間、石垣、堀、土塁
再建造物:御殿(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)
指定文化財:国の重要文化財(鯱の門及び続櫓)・佐賀県史跡・佐賀市重要文化財(御座の間)
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:佐賀城本丸歴史館駐車場
続日本100名城:89番
スタンプ設置場所:佐賀城本丸歴史館
御城印販売場所:佐賀城本丸歴史館

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

◇佐賀県立 佐賀城本丸歴史館HP


【歴史】
佐賀城は、1608年(慶長13年)龍造寺氏の居城であった佐賀龍造寺城(村中城)を、家臣であった鍋島直茂・勝茂親子が改修・拡張して築城したものであり、幅50m以上の広い内堀と幾重もの外堀を巡らし、巨大な五重天守が建てられていた。

◇佐賀城天守台
正保4年(1647年)に記された『肥前国佐賀城覚書』によれば、かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。本丸からは、この天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。初代藩主鍋島勝茂の時代、慶長14年(1609年)に完成した佐賀城の天守閣は五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であった。佐賀城は、八反井樋と今宿江をせき止めれば天守と本丸の一部を除き、外は城下はじめ、全体が湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む仕組みになっていたといわれている。このため佐賀城を一名「沈み城」というのはこのことに由来する。だが、一説には他の城は城下から離れれば離れるほど、その天守が高々とそびえて見えるのに対して、佐賀城は城下を少し遠ざかると、楠や松の木に隠れて見えなくなるためだともいわれている。しかし、佐賀城は享保11年(1726年)、四代藩主吉茂のとき、本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失した。その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今にいたる。
『現地案内板より』

◇佐賀城鯱の門及び続櫓
本丸御殿は慶長13年(1608年)から慶長十六年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726年)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。ところが、この二の丸も天保6年(1835年)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。十代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838年)の6月に完成したものです。明治7年(1874年)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。
『現地案内板より』

◇鍋島直正公像

◇鍋島直正公の説明板

◇鯱の門・続櫓

◇鯱

◇正面に天守台



◇堀





◇24ポンドカノン砲(複製)



◇本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)




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◇土塁
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◇西南櫓台



◇西南櫓台

◇西南櫓台からみた風景

◇西南櫓台からみた中庭

◇西南櫓台から見た堀

◇西側土塁石垣と門

◇西側土塁石垣と門説明板

◇西側土塁

◇西側土塁石垣

◇天守台へ
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◇天守台への枡形状の通路
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◇天守台への枡形状の通路

◇天守台

◇天守台



◇石製樋管と赤石積水路

◇石製樋管と赤石積水路説明板

◇二の丸

◇二の丸説明板


♢佐賀城跡へのアクセス

水ヶ江城跡

♢城郭情報
所在地:佐賀県佐賀市中の館町7−15
別名:なし
築城主:龍造寺康家
築城年:文明年間(1469年~1487年)
廃城年:慶長7年(1602年)
主な城主:龍造寺氏
遺構:なし
再建造物:石碑
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:なし

【歴史】
現在の佐賀城の南東部槇村と呼ばれるところに水ヶ江城が存在していた。龍造寺康家が村中城を二男の家和に譲った際、水ヶ江館に隠居したが、康家が没後は第六子の家兼が引き継いだ。やがて家兼が拡張させ城としての整備がなされたようで、西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、周を濠で囲まれる構造であった。天文13年、家兼は少弐冬尚の命を受け、島原半島の有馬氏を攻撃したが逆に敗退、水ヶ江城を囲まれることとなる。城は少弐氏の謀略により開城、家兼は鍋島清久を頼っていった。水ヶ江城は小田政光が入城していたが、家兼は一気に奪還してしまう。やがて曾孫の円月を還俗させ、水ヶ江城を孫鑑兼に譲り翌年九十三歳で没した。円月は隆信と名乗り、本家村中城の龍造寺胤栄と共に少弐氏の勢力を攻め込んでいった。やがて胤栄の病死により隆信が村中城を相続し、龍造寺氏の当主となった。しかしこの時水ヶ江城にいた鑑兼を推す一派に負け、隆信は筑後に追放されてしまう。その二年後に返り咲いた隆信は弟長信を水ヶ江城を入れ、代々子孫が受け継ぐこととなる。鍋島直茂の代になって乾亨院・玉峰軒・聴松軒・泰陽軒の四寺を建てた。 
『日本城郭大系17』参照







◇龍造寺隆信公生誕地の石碑

◇龍造寺隆信公生誕地説明文

◇隆信公胞衣塚








♢水ヶ江城跡へのアクセス

唐津城跡

♢城郭情報
所在地:佐賀県唐津市東城内8−1
別名:舞鶴城、石城
築城主:寺沢広高
築城年:1608年(慶長13年)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:寺沢氏、土井氏、水野氏、小笠原氏
遺構:石垣、堀
再建造物:模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月3日(水)晴
駐車場:市営有料駐車場(東城内駐車場)
続日本100名城:185番
スタンプ設置場所:唐津城天守閣1階
御城印:天守閣内売店

◇【公式】唐津城


【歴史】
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。東西に伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は、正保4年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。以後、譜代大名5家が入れ替わった。寺沢氏が改易となると一時天領となったが、慶安2年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が城主となった。延宝6年(1678年)大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。元禄4年(1691年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。宝暦12年(1762年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。文化14年(1817年)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後明治維新まで小笠原氏の居城となった。明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、払い下げにより建造物が解体された。
引用:Wikipedia唐津城

◇船入門

◇船入門説明板



◇登城口

◇唐津城の説明板

◇舞鶴公園マップ



◇二ノ曲輪

◇井戸

◇二ノ曲輪



◇本丸櫓門

◇模擬天守

◇本丸

◇亀頭櫓(北門は通行止め)

◇本丸

◇眺望

◇模擬天守・右側に化粧櫓

◇西門



◇石垣

◇旗竿石

◇旗竿石説明板

◇唐津城跡石碑

◇金毘羅神社










♢唐津城跡へのアクセス
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