なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

大分県

杵築城跡

♢城郭情報
所在地:大分県杵築市杵築16−1
別名:木付城、勝山城、臥牛城
築城主:木付頼直
築城年:明徳5年(1394年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:木付氏、前田氏、宮部氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏、松平氏
遺構:土塁、堀切り(台山地区)、堀、石垣、庭園(藩主御殿地区)
再建造物:模擬天守
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:城山公園駐車場
御城印販売場所:杵築城窓口



【歴史】
木付氏は当初、竹ノ尾城を構えたが、明徳5年(1394年)に、木付頼直が杵築城(当時は木付城)を築き、城を移した。天正15年(1587年)島津義弘の部将新納武蔵守の攻撃を受けたが落城せず、城主木付鎮直が籠城して抗戦の末これを退けた。文録2年(1593年)大友義統は文禄の役で、敵前逃亡した罪により豊臣秀吉によって改易された。義統に従って出陣していた木付統直は自刃し、父鎮直も木付城内で自刃して果てた。これにより木付氏は17代で滅びた。文禄4年(1595年)前田玄以、宮部継潤が奉行を務めた後、慶長元年(1596年)に杉原長房の所領となる。長房は慶長2年(1597年)に台山北麓に居館を移した。慶長5年(1600年)には細川忠興の所領となり、重臣の有吉立行を城代として置いた。慶長6年(1601年)には松井康之が城代となっている。慶長13年(1608年)6月に落雷により天守は焼失したが、その後、再建された。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。正保2年(1645年)には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられた。以後代々松平氏が続いて明治に至る。正徳2年(1712年)、幕府の朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されていたため、幕府に伺いを立てた上で「杵築」と表記するようになり、従来、木付城と表記されていたこの城も、杵築城と表記されるようになった。











◇公園入口



◇杵築城址・杵築城御殿跡

◇景観

◇模擬天守

◇木村城石碑



◇青筵神社

◇青筵神社社殿


♢城跡へのアクセス

大友氏館跡

♢城郭情報
所在地:大分県大分市顕徳町3丁目2番45号
別名:なし
築城主:大友氏泰?
築城年:14世紀後半
廃城年:天正14年(1586年)焼失
主な城主:大友氏
遺構:なし
再建造物:居館跡、庭園、万寿寺跡
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:大友氏館跡駐車場

【歴史】
大友氏館は豊後国守護・大友氏泰が築いた居館です。現在の大分市市街地の東部、当時大分川の河口であった付近(現在の大分市顕徳町)に館を構え、この館を中心とする大友氏の城下町は府内と呼ばれた。大友氏館は一辺約200メートルの四辺形で、典型的な守護館であったと推定されている。最盛期にはほぼ九州一円を支配した大友宗麟はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。戦国時代の府内は、大友氏の城下町として、また、外国との貿易港として栄え、1557年(弘治3年)には日本で初めての西洋式の病院が開設され、1580年(天正8年)にはコレジオ(神学院)が設置されるなど、南蛮文化が花開いた。しかし、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻の際に焼き討ちに遭い、壊滅したとされる。

◇大友氏居館跡から出土した礎石と景石

◇大友氏館跡



◇大友氏館跡庭園

◇大友氏館跡庭園の見学コース案内

◇大友氏館跡

◇大友氏館跡説明板

◇大友氏館跡庭園




♢城跡へのアクセス

府内城跡

♢城郭情報
所在地:大分県大分市荷揚町4−4
別名:大分城、荷揚城、白雉城
築城主:福原直高
築城年:1597年(慶長2年)
廃城年:1872年(明治5年)
主な城主:竹中氏、日根野氏、大給松平家
遺構:石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡(天守台)
再建造物:二重櫓3棟、大手門、土塀、廊下橋
指定文化財:県指定史跡(石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡1(天守台))、大分市指定史跡(県指定部分を除く城地)
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:岡城跡駐車場
入城料金:高校生以上 300円 小・中学生 150円(訪城日現在)
日本100名城:94番
スタンプ設置場所:大手門
御城印販売所:御城印は無し(訪城日時点)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
1586年(天正14年)、戸次川の戦いで大友氏館は焼失しますが、1593年(文禄2年)豊臣秀吉の臣下に入った大友義統が、文禄の役での失態のために改易される。1594年(文禄3年)早川長政が代官として府内に入り、大友氏館を改修して移り住んだと伝えられている。早川長政は、1597年(慶長2年)朝鮮攻めの際、援軍として落ち度があったとされ改易、同年、12万石を得て臼杵より転封した、石田三成の妹婿福原直高は、府内城(荷揚城)の築城を開始します。この場所は「荷落」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。1599年(慶長4年)4月、荷揚城完成。しかkし、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。1601年(慶長6年) 関ヶ原の戦いで西軍に付いた早川長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城し、荷揚城の大改修を開始する。1602年(慶長7年)天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成し、1607年(慶長12年)大改修が概ね終了する1634年(寛永11年)重利の子・重義が長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。1656年(明暦2年)吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩主稲葉信通が城代となる。1658年(万治元年)大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。





◇廊下橋

◇廊下橋説明板

◇廊下橋

◇冠木門跡礎石

◇冠木門の礎石説明板

◇松栄神社・稲荷大明神

◇松栄神社由緒書



◇慶長の石垣

◇慶長の石垣説明板

◇西丸西南隅櫓


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◇宗門櫓

◇宗門櫓説明板

◇大手門

◇大手門

◇大手門の廊下橋とかがみ石説明板

◇大手門の廊下橋とかがみ石の説明板

◇着到櫓

◇東丸東南隅櫓


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◇東丸東北隅櫓

◇天守台





◇天守台

◇天守台からの景観

◇天守台からの景観
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◇天守台からの景観

◇天守台からの景観

◇人柱お宮

◇人柱お宮の説明板








♢府内城跡へのアクセス

岡城跡

♢城郭情報
所在地:大分県竹田市大字竹田
別名:臥牛城、豊後竹田城
築城主:緒方惟栄
築城年:文治元年(1185年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:志賀氏、中川氏
遺構:石垣
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2023年5月5日(金)晴
駐車場:岡城跡駐車場
入城料金:高校生以上 300円 小・中学生 150円(訪城日現在)
日本100名城:95番
スタンプ設置場所:岡城料金所(総役所跡)
御城印販売所:岡城料金所(総役所跡)

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。



【歴史】
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れた大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、志賀親次が島津氏の来攻を撃退し、豊臣秀吉から感状を受けた。その後、大友氏の改易とともに志賀氏が城を去り、1594年(文禄3年)に中川秀成が入封し、明治維新にいたるまで中川氏の支配が続くことになる。中川秀成は大規模な改修を行い、本丸の御三階櫓もこのときにできた。

◇岡城ガイドマップ



◇岡城説明板

◇大手道

◇大手門跡

◇大手門跡説明板

◇大手門跡

◇大手門跡

◇朱印状倉跡





◇西の丸跡





◇新屋敷門跡

◇西の丸御殿跡

◇西の丸説明板







◇中川旦見屋敷跡



◇家老屋敷の石垣

◇家老屋敷跡

◇家老屋敷跡

◇賭方跡

◇賭方跡説明板







◇中川民部屋敷跡

◇中川民部屋敷跡説明板

◇景観



◇近戸門跡
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◇近戸門跡説明板
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◇普請方跡

◇普請方跡



◇中川覚左衛門屋敷跡

◇中川覚左衛門屋敷跡説明板



◇中川覚左衛門屋敷跡
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◇中川覚左衛門屋敷跡
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◇埋門





◇古井戸

◇城代屋敷跡

◇籾倉跡

◇三の丸高石垣

◇貫木門跡

◇鐘櫓跡
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◇太鼓門跡



◇三の丸跡

◇二の丸跡

◇二の丸跡説明板

◇武具庫跡

◇二の丸の入り口付近にある空井戸跡

◇二の丸跡

◇二の丸にある滝廉太郎像

◇滝廉太郎説明板

◇月見櫓跡

◇本丸跡

◇御三階櫓跡

◇本丸跡

◇本丸跡にある岡城天満神社

◇岡城天満神社由緒

◇岡城説明板

◇金倉跡

◇堀切


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◇米倉跡

◇東の郭跡

◇御廟所跡

◇下原御門

◇下原御門

◇下原御門説明板

◇清水門跡


♢岡城跡へのアクセス

中津城跡

♢城郭情報
所在地:大分県中津市二ノ丁本丸
別名:中津川城、扇城、小犬丸城、丸山城
築城主:黒田孝高
築城年:天正16年(1588年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:黒田家、細川家、小笠原家、奥平家
遺構:石垣、堀
再建造物:本丸下段水堀
指定文化財:大分県指定史跡
訪城日:2023年5月4日(水)晴
駐車場:中津城 第1駐車場
続日本100名城:191番
スタンプ設置場所:中津城城内(9:00~17:00)
御城印販売場所:中津城天守内売店(9:00~17:00)
※スタンプ設置場所や御城印販売場所などに変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

中津城公式HP


【歴史】
天正15年(1587年) 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡を与えられ、馬ヶ岳城に入城した。天正16年(1588年) 黒田孝高(如水)は、中津城の築城を始める。同年、熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。城内には、城井鎮房を祀った城井神社がある。慶長5年(1600年)黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。同年、細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。慶長7年(1602年)忠興は小倉城を居城とし、修築中の中津城の城主は細川興秋になる。元和7年(1621年)扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。寛永9年(1632年)細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。享保2年(1717年)奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。明治4年(1871年)廃藩置県により中津県の県庁が置かれる。

◇大手門跡

◇大手門跡

◇大手門跡の石垣説明板

◇大手門跡説明板

◇御用屋敷遺跡

◇御用屋敷遺跡説明板

◇御用屋敷遺跡

◇御用屋敷遺跡

◇生田門

◇生田門と中津市学校の説明板







◇増築された石垣

◇増築された石垣説明板

◇中世の館と寺院跡

◇中世の館と寺院跡説明板



◇扇形の石垣(左側)

◇扇形の石垣説明板

◇三斎池

◇三斎池説明板

◇中津城の歴史

◇松の御殿跡に建つ中津神社

◇松の御殿説明板

◇黒田の石垣

◇黒田の石垣

◇水門跡

◇水門跡



◇城井神社
黒田氏によって中津城内で暗殺された城井谷城主・宇都宮鎮房を祀るために創建した神社。

◇城井神社由緒

◇中津大神宮

◇中津大神宮由緒

◇大鞁櫓(左)と模擬天守(右)



◇奥平神社

◇奥平神社由緒
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◇旧中津藩 奥平家説明板
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◇大鞁櫓

◇模擬天守





◇黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
正面から撮影すれば分かり易かったのですが・・・。

◇これだとわかりやすい

◇黒田本丸の石垣と細川時代の石垣説明板



◇黒田如水と正室光姫石像

◇黒田如水と正室光姫石像説明石板

◇黒御門跡


♢中津城跡へのアクセス

森陣屋跡

♢城郭情報
所在地:大分県玖珠郡玖珠町森
別名:久留島陣屋
築城主:来島長親(康親)
築城年:慶長6年(1601年)
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:来島長親(康親)
遺構:石垣、庭園跡、御門、茶屋
再建造物:碑
指定文化財:県史跡、県指定有形文化財(栖鳳楼)
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:

【歴史】
慶長6年(1601年)、来島長親によって豊後森藩が立藩された。長親は、慶長2年(1597年)、父の通総が慶長の役で戦死したため、家督を継いだが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍に属し所領を没収された。その後、伊予国来島から豊後森に一万四千石で所領を与えられ、角牟礼城を廃して、角埋山の山麓に陣屋を置いた。陣屋の敷地内には、来島氏の故地である伊予大三島の大山祇神社の祭神を勧請して三島神社が造営されていたが、天保8年(1837年)、第8代藩主の久留島通嘉が、三島神社の改築を口実として、石垣や茶屋の「栖鳳楼」を増築するとともに、藩主御殿庭園、栖鳳楼庭園、清水御門庭園を造らせ、城構えのように整えた。明治時代には、廃藩置県によって森藩は森県となり、森陣屋は森県庁となったが、ほどなく森県は大分県に合併した。森陣屋の建物は役所などに使われて昭和初期まで残っていたが、その後、一部を残して撤去されている。現在では、森陣屋の跡は三島公園として整備され、栖鳳楼や庭園が現存している。



◇森藩主久留島通嘉公像

◇喜藤次泣かせの石
喜藤次は三島宮(現末広神社)と庭園の造営に活躍した人夫使役。巨大な石を御殿裏御門前まで運んだがそれ以上全く進まず、流石に根気が尽きて地団駄を踏んで泣き出したという。そこで一乗寺の山伏を呼び祈祷し、何とか池畔に運ぶことができたためこの名で呼ばれるようになった。

◇御長坂

◇御長坂説明板



◇鐘櫓跡
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◇石垣

◇栖鳳楼

◇栖鳳楼説明板

◇末広神社

◇日本一大きな手水鉢

◇鞘堂づくりの神殿

◇鞘堂づくりの神殿説明板
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◇栖鳳楼

◇栖鳳楼茶亭見取図

◇丸木御門

◇清水御門

◇清水御門説明板

◇庭園

◇常夜灯

◇常夜灯説明板



◇旧久留島氏庭園

◇旧久留島氏庭園


♢森陣屋跡へのアクセス

角牟礼城跡

♢城郭情報
所在地:大分県玖珠郡玖珠町森
別名:角埋城
築城主:森朝通
築城年:弘安年間(1278年 ~1288年)
廃城年:慶長6年(1601年)
主な城主:森氏、毛利氏 (藤原氏)
遺構:曲輪、石垣、土塁、井戸、竪堀
再建造物:土塀
指定文化財:国の史跡
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:角牟礼城三の丸跡(駐車場)
続日本100名城:192番
スタンプ設置場所:豊後森藩資料館、くすまちメルサンホール
角牟礼城跡と伐株山城跡の御城印販売:豊後森藩資料館、くすまちメルサンホール

※スタンプ設置場所や営業時間に変更があることもあります。必ず最新の情報をチェックしてから行くことをおすすめします。

【歴史】
角牟礼城は、弘安年間(1278年~1288年)に玖珠郡衆の森朝通により天然の要害である角埋山(576メートル)に築かれたと伝えられる。ただし、史料においてその存在が確認できるのは、文明7年(1475年)が最初である。その後、戦国時代には、大内氏と大友氏との争いを背景により堅固に補強された。天正14年(1586年)の島津義弘による豊後侵攻の折には、玖珠郡衆が籠城したが、島津軍の攻撃にも落城することはありませんでした。文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、日田日隈城主の毛利高政が玖珠の拠点として角牟礼城を整備しましたが、慶長6年(1601年)に来島長親が入封し山麓に森陣屋を築いて角牟礼城は廃城となってしまいました。

◇伝三の丸跡

◇伝三の丸跡

◇伝三の丸跡

◇角牟礼城跡説明板

◇伝三の丸跡

◇二ノ丸西曲輪へ続く城道
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◇二の丸西曲輪跡

◇伝二の丸西曲輪跡

◇伝二の丸西曲輪の礎石建物跡

◇西門跡

◇西門跡


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◇本丸虎口

◇本丸

◇本丸

◇本丸

◇土塁


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◇伝二の丸跡



◇石垣





◇大手門跡





◇穴太積石垣

◇穴太積石垣





◇竪堀




♢角牟礼城城跡へのアクセス

永山城跡

♢城郭情報
所在地:大分県日田市丸山町
別名:丸山城、月隈城
築城主:小川光氏
築城年:慶長6年(1601年)
廃城年:寛永16年(1639年)
主な城主:小川氏、石川忠総
遺構:曲輪、石垣、堀
再建造物:土塀
指定文化財:大分県史跡
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:豆田北駐車場

【歴史】
1601年(慶長6年)に小川光氏が丸山城と称して築城したという。1616年(元和2年)に譜代大名の石川忠総が美濃大垣城から移封。丸山城を改築し永山城と改め、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町に改名した。1633年(寛永10年)に中津藩の預かりとなる。1639年(寛永16年)、小川正長・氏行両人が初代代官となり、永山城を廃城して麓に日田陣屋を築く。



◇陰徳倉碑

◇陰徳倉碑説明板



◇日田月隈横穴墓群

◇日田月隈横穴墓群


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◇帰安碑

◇帰安碑の説明板





◇月隈神社

◇月隈神社由緒

◇本丸虎口石垣





◇本丸跡石垣

◇本丸

◇永山夫布政所跡(日田陣屋跡)

◇永山夫布政所跡の説明板


※残念ながら明治時代の石垣と一部現存する水堀は未撮影

♢永山城跡へのアクセス

日隈城跡

♢城郭情報
所在地:大分県日田市庄手601
別名:日の隈城、隈城、亀翁城
築城主:宮城豊盛
築城年:文禄3年(1594年)
廃城年:元和2年(1616年)
主な城主:毛利氏(藤原氏)
遺構:曲輪、石垣
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2023年5月4日(木)晴
駐車場:亀山公園 無料駐車場

【歴史】
1592年(文禄元年)蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた宮城豊盛によって築かれた。1596年(慶長元年)に毛利高政が移封され増築を施し、『豊西記』『豊西説話』によると「五階の天守」と「三階の櫓」が増築され、森春樹の『亀山鈔』によると城下には2重の堀と土塁が廻らされたとある。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに際し、中津領主であった黒田如水が、重臣の栗山利安を日田に送り込んで和議を図った。その年に毛利氏は城を開け渡し、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。慶長6年(1601年)、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封され、城は再び毛利高政の預かりとなり、城代に家老の毛利隼人を入れた。1602年(慶長7年)毛利高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなる。元和二年(1616年)以降、江戸幕府発布の一国一城令により廃城となった。破城は寛永年間(1624~44年)とされているが、松平直矩時代の日田陣屋(永山城)役宅増設の時、貞享元年(1684年)、「永山、隈居城…」と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでない。





◇大手虎口

◇:義民穴井六郎右衛門之碑

◇:義民穴井六郎右衛門之碑の説明板



◇日の隈神社鳥居



◇日の隈神社拝殿(かつてここに五層六重の天守が建っていた)

◇日の隈神社由緒


♢日隈城跡へのアクセス
なんとなく城跡巡り2へようこそ!

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