なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

福島県

福島城跡

♢城郭情報
所在地:福島県福島市杉妻町4
別名:大仏城、杉妻城、杉目城
築城主:伊達氏?
築城年:不明
廃城年:1873年(明治6年)
主な城主:伊達氏、木村氏、本庄氏、本多氏、堀田氏、板倉氏
遺構:堀、土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年4月29日(月)晴
駐車場:福島県庁 外来有料駐車場

【歴史】
現在の福島城跡一帯には福島県庁をはじめ公共機関や民間ビルが立ち並んでおり、庭園跡である紅葉山公園や県庁南に残存している土塁、外堀跡の一部が存在する。福島城(および杉妻城、大仏城)の築城された年は不明であるが、少なくとも古墳時代には既に福島エリアの中枢的建造物が存在したことが確認されている。
平安時代末期には信夫庄佐藤氏一族の杉ノ目太郎信行の居館があったと伝えられている。

1413年(応永20年)に伊達松犬丸(後の伊達持宗)が懸田定勝と共に鎌倉公方へ反乱を起こした際に立て籠もった大仏城が後の福島城といわれる。大仏城は後に杉妻城(または杉目城)と改められ、天文の乱後は伊達氏家臣の牧野相模守の所領になっている。後、伊達晴宗が嫡子・輝宗に家督を譲って隠居した際に米沢城から杉目城へ移った。その後、1577年(天正5年)に晴宗が死去すると、晴宗夫人・裁松院(久保姫)と晴宗末子・直宗が居住した。1591年(天正19年)の奥州仕置で信夫郡が蒲生氏郷領になると、裁松院は杉妻城を出て、孫の政宗に従って岩手沢(築城の後に岩出山に改名)へ去った。

蒲生時代に杉妻城に入ったのは木村吉清である。木村氏は葛西大崎一揆により旧領を没収され、氏郷の客将となっていた。吉清は当初大森城へ入ったが、1592年(文禄元年)頃に杉妻城を「福島城」と改称し、大森城から居城を遷した。吉清は信夫郡5万石を与えられており、福島城が信夫郡の中心的城郭になったのである。

慶長3年(1598年)、蒲生秀行が宇都宮に移され、上杉景勝の領地となる。当初は水原親憲が福島城の城代を務めていたが、旧領である信達(しんたつ)両郡の奪還を望む伊達氏との緊張が高まる時期には、福島城主として本庄繁長が派遣され、それと入れ替わる形で水原親憲は猪苗代城へと移された。その後、1600年(慶長5年)に伊達政宗が信夫郡に侵攻した際に、福島城の北辺一帯(現在の福島市街地)は戦場になっている(松川の戦い)。

関ヶ原の戦いで敗れた上杉氏の米沢30万石への減封後も、本庄氏は重臣として福島城の城代を務め、繁長の後は充長、重長と続く。その後、信夫郡代官となった芋川正親は再び大森城を拠点とした。 福島・大森城(及び伊達郡の梁川城)の下には、奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏が置かれ、上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した。

その後、1664年(寛文4年)に信夫郡が上杉氏から没収されると、1679年(延宝7年)に本多忠国が福島城へ入った。その後天領、堀田氏時代を経て1702年(元禄15年)に板倉重寛が福島藩3万石の領主として入城した。以来、幕末まで約170年間は福島藩板倉氏の居城として機能したのである。

幕末の戊辰戦争時、福島藩板倉氏は奥羽越列藩同盟に参加して薩摩・長州を中心とした西軍と戦ったが、二本松城が落城すると西軍に降伏し、城は西軍に引き渡された。1869年(明治2年)、板倉氏は三河国へ転封され、福島藩は消滅した。

◇庭園(秋葉山公園)

◇秋葉山公園の説明板

◇福島城説明板

◇福島城石碑

◇本丸跡

◇本丸跡

◇県庁駐車場に本丸御殿

◇大佛城跡出土(宝塔)

◇大佛城跡出土(宝塔)の説明板

◇二の丸御外庭



◇杉妻稲荷神社



◇福島県庁西庁舎南側にある土塁跡。



◇板倉神社
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◇偕楽亭跡
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◇偕楽亭跡の説明板

◇福島城と奥州街道

◇大手門跡

◇大手門跡



◇第一小学校校庭(左隅に少しだけ土塁遺構)


♢城跡へのアクセス

駒ヶ嶺城跡

♢城郭情報
所在地:福島県相馬郡新地町駒ケ嶺舘
別名: 臥牛城、駒ヶ嶺要害、駒ヶ嶺所
築城主:相馬盛胤
築城年:永禄年間(1558年〜1570年)
廃城年:慶応4年(1868年)
主な城主:藤崎氏、黒木氏、桜田氏、新田氏、富塚氏、宮内氏
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年4月29日(月)晴
駐車場:登り口に1台程度、法輪寺の駐車場

【歴史】
永禄年間から天正初年頃に、相馬盛胤が伊達氏への防衛網を強化するために築き、藤崎摂津守を城将として置いた。
天正17年(1589年)5月に、伊達政宗の家臣・亘理重宗が駒ヶ嶺城を攻略すると、政宗は黒木宗俊を城主とした(のちに桜田元親と交代)。 藩政期には駒ヶ嶺要害と呼ばれ、新田氏を経て正保元年(1644年)には富塚重信が、享保3年(1718年)には宮内定清が城主となり、以降は宮内氏が幕末まで城主を務めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、仙台藩の浜通り方面軍の本営が置かれたが、相馬中村藩が薩長方に降ると、翌日には薩長軍が駒ヶ嶺城攻めを開始、相馬・久留米藩兵等の攻撃により陥落。仙台藩は二度にわたって奪還作戦を仕掛けたがいずれも失敗に終わった。
本丸跡には城跡碑と案内板が、南麓には「戦死塚」および「仙台藩士戊辰戦没之碑」が建つ。

◇入口











◇本丸入り口

◇三ノ館
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◇三ノ館

◇臥牛城案内図

◇本館
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◇本館にある説明板





◇本館北側枡形虎口



◇土橋

◇西館

◇西館





◇空堀

◇白鳥神社

◇白鳥神社


♢駒ヶ嶺城跡へのアクセス

相馬中村城跡

♢城郭情報
所在地:福島県相馬市中村北町
別名: 陸奥中村城、中村城、馬陵城
築城主:坂上田村麻呂
築城年:800年頃(延暦年間)
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:相馬隆胤
遺構:大手門・石垣・土塁・堀
再建造物:なし
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2024年4月29日(月)晴
駐車場:相馬中村神社駐車場
御城印販売場所:相馬中村神社

【歴史】
中村城の歴史は古く、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。中村氏に代わって相馬盛胤が権勢を振るい、1563年(永禄6年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。1611年(慶長16年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石の政府となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手(からめて)門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年(寛文10年)には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。以後、これを指針として歴代藩主は天守を再建しなかった。
1868年(明治元年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。そして、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃城となった。

◇相馬中村神社
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◇相馬中村神社由来

◇相馬中村神社

◇相馬氏歴代表



◇相馬中村神社



◇妙見曲輪と相馬神社説明板

◇相馬神社社殿



◇西二の丸及び籾倉門跡

◇西二の丸及び籾倉門跡説明板

◇西二の丸及び籾倉門跡



◇相馬神社

◇中村城跡説明板

◇本丸及び天守閣跡

◇本丸及び天守閣跡説明板


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◇石垣

◇石垣

◇南二の丸跡(長友)

◇南二の丸跡(長友)

◇堀切

◇本丸鉢巻石垣及び内堀跡
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◇本丸鉢巻石垣及び内堀跡

◇中の門跡

◇中の門跡

◇中の門跡説明板

◇水堀

◇中村城案内板

◇外大手一ノ門

◇外大手一ノ門説明板

◇石垣

◇東二の丸及び丸土張

◇東二の丸及び丸土張説明板



◇東二の丸

◇堀

◇二宮尊徳坐像

◇二宮尊徳と相馬説明板

◇北三の丸及び岡田館

◇北三の丸及び岡田館説明板

◇蓮池


♢相馬中村城跡へのアクセス

梁川城跡 

♢城郭情報
所在地:福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡
別名: 鶴ヶ城
築城主:伊達氏
築城年:1185~1190年(文治年間)か?
廃城年:1664年(寛文4年)
主な城主:伊達氏、梁川氏、蒲生氏、上杉氏、松前氏
遺構:石垣,土塁,郭,堀,庭園
再建造物:なし
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2024年4月29日(月)晴
駐車場:なし

【歴史】
築城年代は定かではないが、築城に関しては伊達氏の祖である伊達常陸介朝宗が、1189年(文治5年)の奥州合戦の功により、陸奥国伊達郡を賜り、築城されたといい、伊達氏を名乗るようになった。朝宗の後は次男・宗村が相続し、その後、豊臣秀吉によって17代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、1532年(天文元年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている。
豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)によるものと考えられる。1664年(寛文4年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、梁川城を含む伊達郡は没収され、天領となった。この時、梁川城は廃城となった。
しかし、本丸や北三の丸の櫓および城主館をふくめ、城の一部はその後も梁川藩松平氏などの陣屋として使用されている。

◇上杉氏時代の梁川大手門跡

◇上杉氏時代の梁川大手門跡の説明板

◇本丸跡

◇浅間神社
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◇浅間神社由来
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◇東二の丸跡にある浅間神社社殿







◇梁川城跡及び庭園

◇梁川城跡及び庭園の説明板

◇梁川城跡及び庭園(奥に石垣)

◇南二の丸跡にある梁川高等学校




♢梁川城跡へのアクセス

常盤城跡

♢城郭情報
所在地:福島県田村市常葉町常葉字舘
別名:常葉城、旭城
築城主:熊谷直則
築城年:1274年(文永11年)
廃城年:天正17年(1589年)
主な城主:熊谷氏、常磐氏、石沢氏
遺構:曲輪、堀切、切岸
再建造物:模擬天守、石碑、説明板
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2024年4月29日(月)晴
駐車場:常盤城駐車場

【歴史】
常盤城は、旧常葉町中心部の北西にそびえる、標高約536mの通称館山に位置する。
山頂の本丸を中心に、二の丸、三の丸、四の丸、東の出丸、北の丸の5つの主要な曲輪から構成される大規模な山城で、他に多くの堀切や切岸、小規模な曲輪群がみられる。
本丸は東西約50m、南北約40mの広さで、現在は模擬天守が建てられており、城跡は館山公園として整備されている。
築城年は不明ながら、文永年間(1264年~1275年)に熊谷直則によって築かれたとされる。
その後、赤松則村(円心)の後裔とされる赤松顕則が常盤地方に入り、姓を常盤に改めて子孫が代々城主を務めた。
5代・貞久の時、田村清顕より常盤氏が逐われると、田村氏家臣の石沢修理亮が城代となったが、清顕没後の天正17年(1589年)、常盤城は相馬・岩城連合軍に攻められて落城し廃城。修理亮は討死した。

◇常盤城駐車場



◇常盤城説明板



◇曲輪
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◇本丸の模擬天守


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◇旭城の碑
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◇旭城の由来

◇堀切

◇五ノ郭(北の出丸)

◇阿弥陀堂

◇二ノ郭(二ノ丸)

◇虎口

◇土塁?








♢常盤城跡へのアクセス

三春城跡

♢城郭情報
所在地:福島県田村郡三春町大町
別名:舞鶴城
築城主:田村義顕
築城年:1504年(永正元年)
廃城年:1627年(寛永4年)
主な城主:田村氏、松下氏、加藤氏、秋田氏
主な改修者:松下長綱
遺構:曲輪
再建造物:なし
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2024年4月29日(月)
駐車場:なし

続日本100名城:No110
スタンプ設置場所:①三春町歴史民俗資料館②三春城跡 本丸(ボックス設置)
御城印販売場所:三春町歴史民俗資料館
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。



【歴史】
三春城がいつ頃築城されたのかはわからない。史料上はっきりしていることは、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が守山城より三春城に本拠を移したという。田村氏は義顕の後、田村隆顕、田村清顕と続く。
田村氏は義顕の後、田村隆顕、田村清顕と続く。隆顕と清顕の時代、田村郡のある仙道地域(現在の福島県中通り)は、会津黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの周辺各地の有力豪族がその勢力拡大のため進出してきていた。それらの豪族より力の劣る田村氏は、各有力豪族と血縁関係を結び、それら豪族の利害関係を利用して、領地を保つ状況であった。
天正14年(1586年)に清顕が死去し、清顕夫人が三春城主となったが、相馬派と伊達派に分裂した。
天正16年(11588年)に相馬派は家中掌握のため相馬義胤を三春城に入城させようし、義胤は三春まで進出するが、伊達派の反撃にあい、撤退を余儀なくされた。その後、政宗は三春城に入城し、清顕の甥の田村宗顕を三春城主とした。なお田村氏は小田原征伐に参陣しなかった(政宗の指示による)ために豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となった。
奥州仕置によって、三春城は一旦は伊達政宗に預けられて片倉景綱が置かれたが、間もなく田村郡は蒲生領となり、田丸具直が城主となる。だが、理由は不明であるが遅くても文禄4年(1595年)までに田丸は守山城に移されて同年に豊臣秀吉の命によって三春城は廃城とされている。その後の田村郡は上杉領、再び蒲生領となっているが、慶長14年(1609年)までに守山城主であった蒲生郷成が再び三春城に移された。
その後は加藤領となるが、三春城主には一族や重臣が配され、石高も5万石前後と一般大名なみの所領を与えられていた。寛永5年(1628年)松下長綱が三春3万石に封じられ、入城する。この松下氏時代に三春城は改修され、それまでの戦国城館的なものから近世城郭として生まれ変わった。
長綱は寛永21年(1644年)に改易となり、翌年、常陸国宍戸から秋田俊季が5万5千石の領主として三春城へ封じられた。三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となった。

◇三春城跡案内図

◇愛姫生誕の地碑
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◇愛姫生誕の地碑

◇三之門(中之門)跡



◇本丸表門跡

◇本丸跡

◇三春城跡説明板

◇三階櫓跡
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◇三階櫓跡からの風景



◇本丸裏門跡

◇本丸跡

◇風呂屋跡

◇御座之間跡



◇秋田家祖先尊霊碑

◇台所跡

◇大広間跡

◇二之丸跡

◇二之丸跡

◇二之丸跡

◇竪堀跡

◇竪堀跡

◇三之丸(東館)跡

◇三之丸(東館)跡


♢三春城跡へのアクセス

須賀川城跡

♢城郭情報
所在地:福島県須賀川市宮先町78(二階堂神社)
別名:なし
築城主:二階堂行続
築城年:1399年(応永6年)
廃城年:1627年(寛永4年)
主な城主:二階堂氏、石川昭光、蒲生郷成
遺構:なし
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年4月29日(月)
駐車場:なし

【歴史】
応永6年(1399年)二階堂行続が築城した。元亀3年(1572年)に那須資胤の軍勢が攻めてきたが、当時の城主・高瀬伊勢守に敗れている。
1581年(天正9年)に城主の二階堂盛義が死去すると、後室の大乗院が城主となり、城代の須田盛秀が実務を代行した。この頃から伊達氏との対立が深まり、1585年(天正13年)に伊達政宗は当地を攻撃するつもりであったが、逆に佐竹義重らが出陣して伊達側の城を攻撃している。また、1587年(天正15年)には会津衆と二階堂氏が共同で伊達氏を攻撃した。
1589年(天正17年)伊達政宗の攻撃により攻め落とされた。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって須賀川近辺は蒲生氏郷領となり、配下の田丸具直が須賀川城主となった。
1598年(慶長3年)、上杉景勝が会津に入り、部下の栗田国時が愛宕山の城から一帯を統治した。
1601年(慶長6年)に蒲生秀行が会津藩主となると、家臣の蒲生郷成が須賀川城に入った。
1627年(寛永4年)、加藤嘉明が会津藩主となった後、まもなく廃城となった。

◇本丸に建つ二階堂神社

◇那須川城と町割図
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◇本丸に建つ二階堂神社
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◇近くに円谷英二ミュージアムがあります。興味ある方は寄ってみてはいかがでしょうか?
松代通りにはウルトラマン関連の像があります。
◇ゼットン

◇ウルトラセブン

◇エレキング

◇カネゴン

◇初代ウルトラマン

◇古代怪獣ゴモラ像

◇ピグモン


♢須賀川城跡へのアクセス

守山城跡

♢城郭情報
所在地:福島県郡山市田村町守山三の丸36(守山八幡神社)
別名:なし
築城主:田村庄司氏
築城年:平安時代
廃城年:元和元年(1615年)
主な城主:田村氏、三春田村氏、蒲生氏、本庄氏
遺構:土塁、石垣
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年4月29日(月)
駐車場:なし

【歴史】
坂上田村麻呂が蝦夷追討の際にこの地に城を築いたと伝えられる。その後、坂上田村麻呂の子孫である田村庄司氏が本拠地として南北朝時代までこの地方を支配した。関東公方の攻撃による没落後は、三春田村氏が三春城に居城を移すまで本城となった。その後、三春田村氏は、伊達氏の傘下に入る。
天正16年(1588年)伊達政宗は、白石宗実、片倉景綱らを守山城へ配して、蘆名氏を摺上原の戦いで破り、南奥羽をほぼ制圧した。
豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達氏がこの地を去ると、代わって蒲生氏郷の支配下に入る。三春城から田丸直昌が配され改修が行われた。氏郷の没後に豊臣秀吉の命で蒲生氏の支城の数が制約され、田村地方は三春城が廃されて守山城が残されることになった。
慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮城へ移った後は、上杉景勝の支配下に入り、須田長義・本庄繁長・竹俣利綱と相次いで城代が変わった慶長6年(1601年)に蒲生氏が復帰すると蒲生郷成が城代になったが、慶長14年(1609年)までに三春城を再興して同城に移った。
元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。





◇本丸に建つ守山八幡神社

◇土塁



◇力石

◇三の丸跡



♢守山城跡へのアクセス

二本松城跡

♢城郭情報
所在地:福島県二本松市郭内3丁目164−1
別名:霞ヶ城、白旗城
築城主:二本松満泰
築城年:応永21年(1414年)
廃城年:明治5年(1872年)
主な城主:二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
主な改修者:丹羽光重
遺構:天守台、石垣、堀切
再建造物:箕輪門、附櫓
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年4月28日(日)晴
駐車場:霞ヶ城公園第一駐車場

日本100名城:No11
日本100名城スタンプ設置場所:①JR二本松駅構内観光案内所にほんまつ城報館(1F二本松歴史館)
御城印販売場所:①JR二本松駅観光案内②にほんまつ城報館
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。



【歴史】
興国2年/暦応4年(1341年)、室町幕府より奥州管領に任ぜられた畠山国氏 の後見人として畠山高国が塩沢・殿地ヶ岡に最初の居を構え、地名を二本松と改称。1414年(応永21年)に奥州管領畠山国氏の孫満泰が、この地を本拠地としたのが始まりとされる。以後、陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。
天正13年(1585年)10月、二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・義綱(国王丸)を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重・相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した。
政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城主蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成・町野繁仍を城主に据えたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。
上杉景勝が会津を領有した期間は短く、2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。
寛永4年(1627年)、秀行の嫡男忠郷が跡継ぎの無いまま死亡、次男の忠知が伊予松山城に転封となり、会津に忠知と入れ替わりに加藤嘉明が入ると、二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野烏山城から5万石で入城した。翌寛永5年(1628年)に重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には嘉明の次男・明利が入城した。
寛永20年(1643年)、嘉明の嫡男明成が改易となり、丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行った。この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争により正午頃、落城。明治5年(1872年)、廃城令によって廃城。

◇二本松少年隊群像

◇二本松少年隊群像の説明板





◇史跡 二本松城の説明板

◇箕輪門

◇箕輪門



◇箕輪門のアカマツ

◇箕輪門のアカマツの説明板

◇塀重門跡

◇遠裡門跡

◇遠裡門跡の説明板

◇本坂御殿と大手道

◇本坂御殿と大手道の説明板

◇城内路





◇二合田用水と松森館跡

◇煙硝蔵跡
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◇煙硝蔵跡の説明板

◇乙森跡

◇本丸跡

◇本丸からの風景

◇西櫓台
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◇東櫓台

◇天守台跡

◇蔵屋敷跡

◇本丸下南面大大石垣

◇本丸下南面大大石垣

◇日影の井戸

◇日影の井戸の説明板

◇新城舘跡

◇新城舘跡

◇新城館跡の説明板

◇丹羽霊祠殿

◇本宮舘

◇本宮舘の説明板

◇洗心亭

◇洗心亭の説明板

◇るり池

◇三ノ丸跡上段

◇三ノ丸跡下段

◇千人溜






♢二本松城跡へのアクセス

白河小峰城跡

♢城郭情報
所在地:福島県白河市郭内
別名:小峰城、白河城
築城主:結城親朝
築城年: 興国元年/暦応3年(1340年)
廃城年: 明治4年(1871年)
主な城主:白河結城氏、蒲生氏、丹羽氏、松平氏、阿部氏他
主な改修者:丹羽長重
遺構:石垣、土塁、堀
再建造物:三重櫓・太鼓櫓・門
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年4月28日(日)晴
駐車場:鶴ヶ城公園東口観光有料駐車場など

日本100名城:No13
日本100名城スタンプ設置場所:①小峰城三重櫓②二之丸茶屋JR白河駅観光案内所小峰城歴史館「旧白河集古苑」
御城印販売場所:二之丸茶屋
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。



【歴史】
白河小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、寛永9年(1632年)に完成した。その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。
翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した(白河口の戦い)。1873年(明治6年)1月14日の廃城令では存城処分とされた。

◇小峰城道場跡

◇小峰城道場跡案内図

◇道場跡説明板

◇小峰城外堀石垣

◇小峰城道場跡と道場小路跡

◇三の丸門跡

◇三の丸門跡

◇藤門跡

◇二の丸跡





◇堀

◇清水門跡

◇清水門跡説明板

◇小峰城の門・櫓跡

◇小峰城の門・櫓跡説明板
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◇小峰城大手門跡礎石

◇小峰城大手門跡礎石説明板

◇会津門跡

◇会津門説明板






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◇帯曲輪門跡
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◇帯曲輪門跡説明板

◇石垣



◇文庫櫓跡

◇本丸石垣西面

◇水懸口

◇本丸石垣北面
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◇小峰城最古と思われる石垣

◇小峰城最古と思われる石垣の説明板

◇矢ノ門跡

◇矢ノ門跡の説明板



◇櫻門跡

◇多門櫓跡

◇復元された三重櫓と前御門

◇本丸御殿跡

◇本丸御殿跡の説明板

◇三重櫓跡

◇三重櫓跡の説明板

◇おとめ桜の

◇おとめ桜の説明板

◇御前門跡

◇竹ノ丸二重櫓跡

◇竹ノ丸跡

◇竹ノ丸跡の説明板

◇小峰城跡の説明板


♢白河小峰城跡へのアクセス
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