なんとなく城跡巡り2

主に近畿地方を中心にCBR400Rで城跡を巡っています

栃木県

下総國古河藩小山御殿跡

♢城郭情報
所在地:栃木県小山市中央町1丁目3
別名:祇園城
築城主:小山政光、北条氏、本多正純
築城年:1622年(元和8年)
廃城年:1682年(天和2年)
主な城主:小山氏
遺構:曲輪、土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:小山市役所駐車場

【歴史】
徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として建てられました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったともいわれています。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され、一周忌が営まれます。
それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも三代将軍の家光は10回も社参を行っています。
小山御殿は、かなり厳重な配置になっており、周囲に堀を廻らし、土塁を二重に築き、敷地内には16ヶ所もの御番所が設けられていました。
将軍家の日光社参は寛文3年(1663年)に4代将軍家綱が行って以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728年)に再開するまで財政難を理由として途絶えてしまいます。
この間、台風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682年)、古河藩によって解体されてしまいました。『現地案内板より』

◇市指定史跡小山評定跡

◇市指定史跡小山評定跡の説明板

◇御殿跡(奥に土塁)

◇御殿広場の案内板

◇御殿跡

◇御殿跡


♢小山御殿跡へのアクセス

小山氏城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県小山市城山町1丁目1
別名:祇園城、小山城
築城主:小山政光
築城年:1148年(久安4年)
廃城年:1619年(元和5年)
主な城主:小山氏、北条氏、本多正純
遺構:曲輪、空堀、土塁、馬出し
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:城山公園駐車場

【歴史】
小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。

小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。

その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏照に降伏して開城し北条氏照の手によって改修され[2]、北関東攻略の拠点となっているが、天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。

小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。

明治時代には第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建てられたが、現存してはおらず、発掘調査で礎石と思われるものが確認された。

別名である祇園城は小山氏の守護神である祇園社(現須賀神社)からとったものである。

◇空堀

◇本祇園曲輪跡

◇空堀

◇空堀

◇塚田曲輪跡

◇空堀

◇空堀

◇中曲輪跡(馬出し)

◇祇園橋(工事中のため先へは行けませんでした)

◇北久保跡

◇北久保跡

◇北久保跡


♢小山氏城跡へのアクセス

栃木城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県栃木市城内町
別名:なし
築城主:皆川広照
築城年:天正19年(1591年)
廃城年:慶長14年(1609年)
主な城主:皆川広照
遺構: 土塁、堀
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:なし

【歴史】
栃木城は、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して皆川城は落城または開城し、広照は翌天正19年(1591年)、皆川広照によりこの城が築かれるにいたった。本丸、東二の丸、蔵屋敷、東三の丸、南三の丸からなる城郭で、城の鬼門に東宮神社が祀られています。城の南は円通寺、西はもくれい川を隔て町に接しています。
のちの栃木宿を城下として近隣の郷村から諸社寺を現在地に移し計画的な町づくりを行いましたが、城は1609年(慶長14年)将軍徳川家康による広照の改易と、城取り壊し政策により廃城となる。築城からわずか19年間という短い歴史であった現在は、塀の跡や土塁の一部が残るだけとなっています。

◇堀

◇堀



◇栃木城の説明板





◇本丸

◇本丸






♢栃木城跡へのアクセス

皆川城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県栃木市皆川城内町
別名:法螺貝城
築城主:皆川秀宗
築城年:永享元年(1429年)
廃城年:天正18年(1590年)
主な城主:皆川氏
遺構:土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
標高:147.3m
訪城日:2024年5月1日(水)曇のち雨
駐車場:皆川城址公園駐車場

【歴史】
皆川氏の居城で、螺旋状にできていることから、法螺貝城とも呼ばれる。当初、寛喜年間(1229年 -~1232年)に皆川宗員によって築かれたと言われているが、これは主郭の東の白山台の館跡だと思われます。この皆川氏は元享3年(1323年)に、6代宗常が、鎌倉幕府執権北条高時に背いたため領地を没収され断絶しました。

新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされたが、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ、皆川氏の菩提寺である金剛寺の案内板はこの説を採り、永享元年(1429年)の築城としている。

皆川氏は戦国時代に入ると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏から圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正18年(1590年)皆川広照は北条氏に与して小田原城へ篭城したため、皆川城は豊臣方の上杉景勝勢に攻められ、降伏した。しかし、広照は小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。翌年、広照は本拠を栃木城に遷し、皆川城は廃城となった。



◇皆川城の説明板

◇皆川城公園案内図





◇竪堀

◇西の丸跡







◇本丸

◇皆川城跡縄張り図

◇眺望

◇本丸




♢皆川城跡へのアクセス

真岡城跡・真岡陣屋跡

♢城郭情報
所在地:栃木県真岡市台町321
別名:芳賀城、舞か丘城
築城主:芳賀高貞
築城年:1362年(貞治元年)
廃城年:1597年(慶長2年)
主な城主:芳賀氏
主な改修者:芳賀高継
遺構:腰曲輪、土塁
再建造物:なし
指定文化財:なし
訪城日:2024年5月1日(水)曇
駐車場:なし

【歴史】
真岡城の起源には諸説あるが、鎌倉時代末期の貞治元年(1362年)に芳賀高貞が築城して御前城から移転し、戦国時代の天正5年(1577年)になって、芳賀高継が北条氏の侵攻に備えて堅固な城郭としたとの説が有力とされる。
1597年(慶長2年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると同時に廃城となった。江戸時代には遺構の一部が徳川幕府の代官所として利用された。
真岡城は、城の周囲には五行川や行屋川が流れ、またこれら河川から水を引いた水濠があったという。郭は南北に並ぶように4つ設けられ、最南端に大手門があり南から順番に四の郭、三の郭、二の郭、本郭と連なり各郭間には空堀があった。各郭の周囲には腰曲輪があり、本郭と二の郭の間に搦手門があったといわれる。

◇真岡陣屋跡

◇陣屋跡にある本城稲荷神社








◇真岡城跡

◇真岡城跡

◇真岡城跡

◇真岡城跡

◇真岡城について

◇石垣

◇土塁

◇高札場



◇庭園?

◇真岡城と高札場の説明板


♢真岡城跡へのアクセス

飛山城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県宇都宮市竹下町380−1
別名:なし
築城主:芳賀高俊
築城年:永仁年間(1293年~1298年)
廃城年:1590年(天正18年)以降
主な城主:芳賀氏(清原氏)
主な改修者:本多正純
遺構:土塁、空堀
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年5月1日(水)曇
駐車場:飛山城史跡公園駐車場
御城印販売:とびやま歴史体験館




【歴史】
山城は鎌倉時代後期にあたる永仁年間(1293年~1298年)に宇都宮景綱の家臣・芳賀高俊によって築かれたといわれている。

芳賀氏は、益子氏とともに紀清両党と呼ばれる宇都宮氏の有力な武士団であった。飛山城に居する間は清原氏を名乗ったと言われており、この清原姓が後の現宇都宮市東部の地名『清原』となったと考えられているが、不詳である。上野国・越後国の守護代に任じられるなど隆盛したが、南北朝期には戦乱に巻き込まれ、南朝に攻め込まれ落城したこともあった。

戦国時代になると芳賀氏も関東平野の覇権争いに例外なく巻き込まれた。弘治3年(1557年)には宇都宮氏や芳賀氏を支援した常陸国の佐竹義昭による宇都宮城奪回作戦(その時期の宇都宮城は壬生城主・壬生綱雄が占領していた)の最前線基地となっている。

天正18年(1590年)、関東の後北条氏を滅亡させた豊臣秀吉は、宇都宮城に入城し、関東の支配体制を決定する宇都宮仕置を行う。そこで秀吉は宇都宮氏18万5千石の所領安堵を裁決した一方で、「佐竹・宇都宮ならびに家来のものども、多賀谷・水谷」に対して「いらざる城は破却せよ」との命令を発している。そのため、飛山城も「城破り」の対象として破却され廃城となった。



◇大手口木橋

◇大手口木橋の説明板









◇枡形

◇枡形の説明板

◇土橋?

◇空堀

◇空堀

◇門跡

◇門跡の説明板

◇管理土橋

◇管理土橋の説明板

◇中世竪穴建物



◇溝跡(中央の道)

◇土橋

◇土橋の説明板

◇土塁・堀(内堀)

◇土塁・堀(内堀)

◇土塁・堀(内堀)

◇土橋5号堀

◇土橋5号堀説明板

◇物見櫓跡
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◇土塁・堀(外堀)

◇4号堀

◇4号堀の説明板

◇掘立柱建物

◇掘立柱建物の説明板

◇石積遺構

◇石積遺構の説明板

◇2号堀

◇2号堀の説明板

◇木橋

◇木橋の説明板



◇1号堀

◇1号堀の説明板

◇眺望






♢飛山城跡へのアクセス

宇都宮城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県宇都宮市本丸町2−24
別名:亀ヶ岡城
築城主:藤原秀郷または藤原宗円
築城年:延長5年(927年)
廃城年:1868年
主な城主:宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
主な改修者:本多正純
遺構:土塁、大いちょう、石垣
再建造物:清明台櫓、富士見櫓、土塁・堀、土塀
指定文化財:なし
訪城日:2024年5月1日(水)曇
駐車場:宇都宮城址公園 南駐車場

【歴史】
築城年代は不明ですが、平安時代後期、藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。

戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した。

宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が110万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。
さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。

宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された。

正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6~7万石で治め、幕末を迎える。

宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した。

◇土橋の石垣跡

◇土橋の石垣跡の説明板



◇堀跡

◇堀跡の説明板



◇富士見櫓

◇堀

◇二の丸跡



◇本丸跡
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◇清水門
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◇清水門の説明板

◇本丸堀

◇本丸堀の説明板

◇本丸跡

◇清見台





◇富士見櫓


♢宇都宮城跡へのアクセス

唐沢山城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県佐野市富士町1409
別名:栃本城、根古屋城、牛ヶ城
築城主:藤原秀郷
築城年:延長5年(927年)
廃城年: 慶長7年(1602年)
主な城主:佐野信吉
主な改修者:佐野成俊、佐野盛綱
遺構:石垣、大手枡形、土塁、縦堀、堀切、土橋、復元井戸
再建造物:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2024年4月30日(火)曇りのち雨
駐車場:唐沢山城跡 駐車場

続日本100名城(114番)
スタンプ設置場所:唐澤山神社社務所
御城印販売場所:唐澤山神社社務所
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。



【歴史】
築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。

治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。
以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。

延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。

戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。

昌綱の後を継いだ佐野宗綱は常陸国の佐竹氏と同盟を結んで北条氏と戦い続けるものの、宗綱が戦死すると天正15年(1587年)に北条氏康の子の氏忠を佐野氏の当主に迎えて北条氏の傘下に入り、これを反発した昌綱の弟の佐野房綱は出奔して豊臣秀吉に仕えた。

天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、佐野房綱は唐沢山城に帰郷して接収し、氏忠は秀吉の命令で高野山へ追放された。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。





◇くい違い虎口

◇くい違い虎口の説明板

◇武者詰と大井の間の虎口

◇武者詰と大井の間の虎口の説明板

◇地形起伏図

◇大炊の井

◇大炊の井

◇大炊の井の説明板

◇神橋

◇四ツ目堀
南城方面と帯曲輪以東を分断する大きな堀切で、古地図に堀口5間、深さ2間とあります。現在神橋が架かっていますが、かつては曳橋であったとされています。いざという時に橋を引き払い、通行を遮断することができました。

◇四ツ目掘

◇帯曲輪
古地図や記録では三の丸を含めて帯曲輪としていますが、現在では細長い平坦地を指しています。高く急な切岸と土塁を有していますが、四つ目堀を隔てた本丸側における最前線の防衛拠点であったと考えられます。
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◇三の丸跡
現在は帯曲輪と二の丸の間を三の丸としています。本城では大きな曲輪です。かつては賓客の応接間があったとされます。周囲は高く急な切岸が巡りますが、部分的な石垣等が複数箇所で認められます。


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◇竪堀

◇高石垣

◇高石垣

◇二の丸跡
追手出丸と記述する古地図もあります。周囲には石塁のような石垣が巡ります。奥御殿直番の詰所があったとされています。現在本丸への通路は直線的にアプローチしていますが、かつては鉤の手に折れていたようです。



◇二の丸から見上げた本丸



◇唐沢山神社

◇唐沢山神社山門

◇南局跡



◇長門丸

◇長門丸


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◇金の丸





◇石垣

◇石垣

◇南城跡

◇南城について

◇眺望

◇南城石垣

◇南城石垣

◇車井戸


♢唐沢山城跡へのアクセス

佐野城跡

♢城郭情報
所在地:栃木県佐野市若松町425−504
別名:姥が城、春日岡城、春日城
築城主:佐野信吉
築城年:1602年(慶長7年)
廃城年:1614年(慶長19年)
主な城主:佐野信吉
遺構:郭、堀切、土塁
再建造物:なし
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2024年4月30日(火)曇りのち雨
駐車場:城山記念館 駐車場


【歴史】
1602年(慶長7年)佐野氏は徳川家康の意向を受けて、上杉謙信の攻撃をもしのいだ山城の唐沢山城を廃して麓に新規に佐野城を築城した。唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されている。理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定される。

佐野城は春日岡にあった惣宗寺の跡地に新しい佐野氏の本拠地に相応しい近世城郭として築城され、築城途中の1607年(慶長12年)には城主である佐野信吉も唐沢山城から佐野城に移転して城下町も整備されたが、整備半ばの1614年(慶長19年)に突如佐野氏が改易されたために、わずか14年で廃城となった。

城の形式は連郭式の平山城で、東西約370メートル×南北約500メートルの規模を有する。城跡としては曲輪の跡や堀切・土塁などが残されている。外堀(水堀)は区画整理等により消滅した。

◇佐野城犬走

◇佐野城犬走の説明板

◇三の丸

◇三の丸


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◇二の丸

◇二の丸

◇二の丸







◇風景

◇堀切?





◇北出丸

◇本丸の石畳と石垣
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◇本丸の石畳と石垣

◇二の丸


♢佐野城跡へのアクセス

足利氏館跡

♢城郭情報
所在地:栃木県足利市家富町2220
別名:足利氏宅、鑁阿寺館
築城主:足利義国(義兼とも)
築城年:文治年間(1185年〜1190年)
廃城年:1873年(明治6年)
主な城主:足利義兼
遺構:曲輪、土塁、横堀(水堀)
再建造物:なし
指定文化財:国史跡(足利氏宅跡(鑁阿寺)
訪城日:2024年4月30日(火)曇りのち雨
駐車場:鑁阿寺参拝者駐車

日本100名城:No15
日本100名城スタンプ設置場所:鑁阿寺本堂
御城印販売場所:鑁阿寺本堂
※販売場所や営業時間等、必ず最新の情報を確認してから行くことをお勧めします。

【歴史】
足利氏館は、平安時代末期、源義国によって築かれたものとされていますが、正確にはわかっていません。
鑁阿寺はもともとは足利氏の館であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。
1196年(建久7年)、足利義兼は館の敷地内に「堀内御堂」という持仏堂を建立し、大日如来を奉納。その後、三代目当主である足利義氏が1234年(文暦元年)に伽藍を整備し、足利氏の氏寺としました。
南北朝時代には、鶴岡八幡宮の支配下となりますが、足利氏の衰退とともにこちらも衰退します。
足利義兼の死後、息子の足利義氏によって堀の外に十二支院が建てられ、鑁阿寺は足利氏の氏寺となります。足利氏館は1922年(大正11年)に「足利氏館」(鑁阿寺)として国の史跡に指定されており、本堂は2013年(平成25年)に国宝となりました。

◇北門(薬医門)

◇北側水堀

◇北側水堀

◇北門(薬医門)

◇北門(薬医門)の説明板

◇智願寺殿御霊屋(蛭子堂)

◇御霊屋

◇御霊屋の説明板

◇西門

◇西門の説明板

◇西側水堀

◇中御堂(不動堂)

◇中御堂(不動堂)の説明板

◇本堂

◇本堂の説明板



◇楼門及び反橋

◇楼門及び反橋(太鼓橋)

◇反橋(太鼓橋)

◇楼門及び反橋(太鼓橋)の説明板

◇南側水堀

◇鐘楼

◇鐘楼の説明板

◇東門

◇東門の説明板


♢足利氏館跡へのアクセス
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